宮崎 房子さん(校友会設立100周年記念事業特別委員会・記念誌部会長)
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- 2017.05.19
全国に先駆け、女性で初めて都道府県校友会の会長を務めたことのある宮崎房子さん(’59経済)。男性社会の中で果敢に道を切り拓いてきた数々の経験を活かし、校友会100周年の記念誌部会長として、女性の視点を採り入れた記念誌づくりにも力を注いでいます。
女子学生を受け入れる体制のなかった時代
高校生の頃にラジオで聞いた末川博総長(当時)の言葉「未来を信じ未来に生きよ」に感銘を受け、立命館に入学したのは1955年。当時、女子学生の入学者は理工学部に0、法学部に2~3人、私のいた経済学部もたった2人。ツバの広い角帽をかぶったバンカラに囲まれ、男臭い環境で辛抱して授業を受けていました。一番辛かったのは女子トイレがなかったことです。事務員さんに頼んで中川会館のトイレを使わせてもらっていましたが、ことほどさように女子学生の存在は想定されていなかったのです。これは私の入学すべき大学ではなかったと思い、田舎の父あてに「退学したい」と電報を打ったこともありました。父からは「乗りかかった船だ。頑張れ!」との返信あるのみ。やむなく数少ない女性同士肩を寄せ合い、助け合って学生生活を送りました。彼女たちとはいつしか仲良くなり、卒業から半世紀を過ぎた今も、親交は続いています。
逆境を支えた立命館魂
女性の進学も珍しいくらいですから、女性が職場で働くことは歓迎されない時代でした。私はどうしても働きたいと、卒業してから民間企業に就職しましたが、結局、結婚・妊娠を機に退職せざるを得ませんでした。公務員ならまだ門戸が開けているかと期待し、せっかくの教員免許を活用しようと27歳で教員になることを決意。乳飲み子を抱えて必死に勉強し、「女で子持ちで年増」とののしる面接官の言葉に耐えながら、3度目でようやく教員採用試験に合格しました。喜びも束の間、私に与えられた赴任先は山村地域ばかり。幼い娘たちを義母に託し離れて暮らした時期も数年間に及びました。この間、幼・小・中・高とすべての課程をクリアーし、その職務を全うすることができました。これも立命館魂が私をそうさせたのです。
女性校友の存在を可視化する
校友会には30年程前から参加するようになり、2005年から2011年までは徳島県校友会の会長も務めました。女性の会長というのは全国でも例がありませんでしたが、幸い多くの方のサポートによって会を活性化することができたと自負しています。一番印象に残っているのは、女性校友サークルARR(阿波リッツローズサークル)を立ち上げたこと。ただおしゃべりするだけの集まりではなく、組織として位置づけることで、校友会における女性の存在を前面に押し出すことができました。こうして校友会設立100周年記念事業特別委員会の記念誌部会長を仰せつかっているのも、同じ理由を期待されてのことだと理解しています。今や母校の女子学生数は西日本一、現校友会では多くの女性が活躍していますが、ここに至る過程には、女性たちの見えない苦労や努力があったはず。彼女たちの声を記念誌の中に刻むことで、さらに女性が参加しやすい校友会に、と期待しています。