思い出の通学路
1979年入学の私は当初、知人の紹介で千本釈迦堂(大報恩寺)にお世話になり、境内に下宿していた。通学路は今出川通と平行に、小学校の北側を、いかにも西陣の町並みという風情を眺めながら西に進み、北野天満宮の裏を抜け、紙屋川を渡ると平野神社にぶつかる。平野神社の境内を突き抜けて、西大路を渡ると衣笠経験のある諸兄は皆さん馴染みのある道となり、キャンパス内は以学館から構内を行くもよし、等持院の裏手の銀杏並木を行くもよし、という感じで通学していた。
春は平野神社のしだれ桜が素晴らしく、歩くのが遅くなってしまう。夏は京都の暑さに閉口したが、一度だけ紙屋川の橋の上から蛍を見た。秋は台風の時に、北野天満宮の塀の瓦が飛ばされるのを、自分も飛ばされそうになりながら目撃。冬は七本松通から見える大文字山の「大」の字が白くなることを知り、あまりの寒さに驚く。結局、1年で引っ越してしまったため、この思い出の通学路との繋がりは短かったが、初老になった今でも時折、思い出す。
びわこキヤンパス・メイン通り
教室の前三列ほどは、いつも社会人学生が座っている。誰言うともなくいつの間にか、「シルバーシート」と呼ぶようになった。シルバーシートには、勤勉派の学生も高齢者に混じって座っている。学生は社会人に意見を求めたり、バイトで欠席した際の講義記録を社会人のノートからコピーさせてもらったりしている。逆に社会人は、苦手な数式計算など教えてもらう。極めてフレンドリーな関係である。
2回生時、若い学生と高齢者が一緒のグループで研究発表をする。夏休み前になるとそれなりにゼミの学生達とも顔なじみになって来る。ある時突然、「おばさん達にとって僕らの存在って、どんな風」と、横に座った学生に聞かれた。私は、突然の問いかけにとまどいながら、「そうね。孫にしては大きすぎるし、息子にしては小さすぎるってとこかな」
「ふーん」と、半解な表情に笑顔を重ねて学生は友達の輪に戻って行った。
びわこキャンパスでの2年目、衣笠学舎のような落ち着いた環境は望みようもないが、それでも樹木はそれぞれの居場所を確保して朝の斜光を全身で受け止め、華やいでみせる。
正門から幅広のメイン通りは鮮やかな綾錦の高低の樹木を両面に配し、風景の中央で学舎へと向かう学生達は遠近バランスよく納まってしまう。風景の中で歩を進めることの幸せを体毎感じ心地よい。風に乗ってきた妖精が言う。
「春の桜はどうだったの、謳歌したさつきの花は、可憐なうつぎの咲く頃はどうだったの、貴女の心に自然を愛でる余裕がなかったの」
「いいえ、今の方がゼミの発表、レポート提出三つ、余裕なんてないんですが・・・・・・」
春の陽光は我が身には眩しすぎ、さつきの饗宴は派手で身の丈ではないし、可憐なうつぎはしなやかすぎる。今、こうして綾錦のスポットに身を投ずる安心感がなんともいとおしい。
調子よく計画通りに物事がこなせていると自負していると、ある日の夕方突然頭痛と指先や舌先のしびれに見舞われた。
一瞬どうしようと不安になったが、すぐに症状も治まった。講義も終盤で気持ちを落ちつかせ、終わるのを待った。こんな時に限って仲間がいない。そのはずで、自由選択の考古学である。それに、後期は日の落ちるのも早い。遠方から通学している仲間は遅い時間の必須科目外は選択しない。受講終了を待って電話でなじみの医師に症状を伝えた。
正門近くでライトを上向けて待機しているタクシーに私は大きく手を廻した。「キャンパスはまるで別世界、おとぎの国の城のようできらびやかですね」リストラ3年目、上品で温厚な物腰のドライバーは私の状態を気遣いながら語った。
宇治での下宿生活
下宿から大学までは、近鉄電車に乗って大久保駅から京都駅まで近鉄京都線急行で20分、京都駅からは市電で30分程度、約1時間近くかかって通っていたのであるが、苦にならなかったのは、サラリーマンと違って時間に縛られなかったからであろう。
下宿を営む母屋は、お茶を作っており、下宿の部屋の外はお茶畑になっていて、春になると近所のおばさんたちがお茶摘みのアルバイトに精を出していた。窓の外には、国鉄奈良線が通っていて、時々、蒸気機関車が通るという、今では考えられないくらい静かで、のどかな田舎風景だった。
最初の2年間は、下宿の近くの家の中学生を相手に家庭教師をしていた。週2、3回教えるだけで、夕食も提供され、なかなか良いアルバイトであったが、3回生以降は時間的にもなかなか難しくなった。また、宇治はお茶で有名なところであるが、3回生になって、大学の学生課の紹介で、宇治市内のお茶屋さんにお茶の製造のアルバイトに行った。下宿に近い駅である新田駅から国鉄で1駅北に行くと宇治駅で、朝8時から夜10時くらいまで働いたと思う。時給は安かったが、朝、昼、夜、夜食と食事付きであったことから、下宿の他のメンバーにも声をかけて、春の1ヶ月程アルバイトをした。母屋のおやじさんからもいろいろとお茶については、教えてもらったが、実際にお茶の出来上がるのを実地で見ることが出来たのである。
食事は基本的に自炊で、共同の台所があり、そこで調理をしていた。また、下宿生5,6人で隣の電器屋から冷蔵庫や洗濯機を安く買って共同で使っていた。トイレも共同だった。
当時を振り返ってみると、授業料を除く生活費として、奨学金が12,000円、自宅からの仕送りが10,000円で、計22,000円で生活していた。部屋代は相場どおりの1畳1,000円、4畳半なので4,500円だった。大学の学生食堂は、研心館の地下にあり、薄暗い印象しか記憶に残っていない。一番安い定食が80円で、キャベツの千切りと一品(例えば、フィッシュスティック等)が載った一皿がおかずで、これにご飯がついていた。ウドンは30円、味噌汁が5円、ラーメンが50円(80円だったかも)だった。清心館という文学部の建物にグリルがあり、懐が豊かなときに、ここでビーフカツかミンチカツを食べるのが、経済的にキツイ中にあって、ささやかな豊かさを感じるときであった。
京都市内には古い寺院や庭園がたくさんあり、興味があれば、いくら回っても見おおせないものである。また、伏見以南から奈良市へと至る南山城地域にも、寺院や仏像、庭園が点在しており、これらも結構数があって、交通機関で見て回るとなると、バスもほとんどなく、歩くのが大半であり、時間がかかるものであるが、時間を見つけてはテクテク歩いていた。近鉄の沿線に下宿していたということもあり、奈良へもよく出かけて行って、多くの寺院や仏像、庭園などを拝観して回った。おかげで、京都、奈良、その周辺の案内は今でもほぼ間違いなく出来ると思う。
下宿を起点に過ごした4年間
衣笠キャンパスの東門から直ぐの場所で4年間、下宿させて頂きました。
4.5畳の部屋で確か家賃は月15000円でした。今では、考えられないですね。
廊下をはさんで向かい側にも部屋があり、その時の方とは、今でも、愛知県で時々、会っています。
毎日、友達がきて、酒を飲んだり、しょうざんボウルに行ったり、雀荘へ行ったりしていました。
下宿を起点に過ごした4年間、いまでは懐かしく、かけがえのない思い出です。
東門の食堂が懐かしい
夜間コースに4年間通いました。学友には、自衛官、市役所、宮内庁、扇子職人、着物屋さん、戦争経験のある人生の大先輩などなど…沢山の方々と同じ教室で勉強出来た事。私の人生でかけがえのない体験です。毎晩9:15に授業が終わってから、気のおけない友人たちと、東門から出て、今はもうなくなった呉竹食堂で、とっても愛想の良いおばあさんに、私かお店に入るなり、お兄ちゃん今日もチキンカツ?と声を掛けられていた事を思い出します。食事が終わると、205番のバスに飛び乗り、滋賀のいえに帰り着くのは、いつも11時過ぎでした。衣笠キャンパスの一生忘れられない思い出です。
下宿先が火事に‼︎
忘れもしない確か一回生のある冬の夜でした。友達の下宿先からもう1人の友人を自分のバイクの後ろに乗せ、午後10時頃だったと思います。自分の下宿先に向かって行ったところ、いざ下宿に入ろうとすると赤い消防団の服を着た団員の人に止められました。下宿には入れないと言うのです。下宿先は火事で燃えたと言うのです。「えー、火事?」 なるほど良く見ると下宿先の入り口には縄が横に引いてありました。翌朝には現場検証をするのだそうです。仕方なく近くの先輩の下宿にその夜は泊めて頂きました。その夜は火事の原因は何かと頭を巡らせました。翌日には火事の原因は一階に下宿していた学生のタバコの不始末だと分かりました。私の下宿の部屋は玄関の上で尚且つ道路側の2階でした。幸いにも私の部屋は燃えなかったのです。但し消化活動の放水の為全て水浸しになりました。教科書などはススで黒くなりましたが何とか使えました。これは私の部屋が道路側の2階だった為消防車の放水を受けやすかったからだと推測されます。同じ下宿の友人は2階から電柱を伝って命からがら逃げたそうです。幸運にも燃え盛る火事現場にいなく、更には持ち物は少しススがありましたが、濡れただけでした。不幸中の幸いです。この後荷物はしばらく大学の寮に置かせて頂きました。その時は大学には大変お世話になりました。その後40年ほど経った今でも火事の恐怖は忘れられません。皆さんも火事には気を付けて下さい。