「奇跡の出会い」があるかもしれない阪急電車
大阪から阪急京都線で西院経由で衣笠キャンパスまで通学していました。
春セメスターのとある朝に、2011年4月末に関西でロードショーされた映画『阪急電車 =片道15分の奇跡=』のステッカーが目に入りました。
「今乗るこの電車に奇跡の出会いがあるかもね!!!」
阪急京都線に私は梅田から乗っていたので、片道15分の3倍:片道45分間阪急京都線に乗っていたにもかかわらず、阪急の車内で「奇跡の出会い」に巡り合ったことはほとんどありませんでした。
そして、「奇跡の出会い」は自分で起こすしかないんやな!と感じたのでした。
卒業後も、阪急電車に乗ると、学生の頃の思い出が自然と頭をよぎって懐かしさに浸ってしまいます。
清浄華院の裏門
京都の市電は河原町今出川と府立医科大学病院・立命館大学前の間が一番よく揺れたように思う。腰を振り振り走る市電が通り過ぎるか過ぎないうちに、私はレールが敷かれた古びた石畳を横切り、河原町通りに面する清浄華院の小さな裏門を潜った。その路地の先は境内に入り込み、有心館のある寺町通りに抜ける近道になっていて、誰に教わったか、授業のたびによく通り抜けをしていた。昭和49年、1回生のころことだった。
ある時、裏門を潜って境内の路地に入ると同時に、背後の河原町通りではまた路面電車が通り過ぎ、軋んで悲鳴を挙げるような音が聞こえた。そのとき、市電の中でふとこの門の中が気になって意識を向けた人がいた、というような妄想を描いたことがある。それはこの「通学路」を知る前、私は門の先に窄む路地の、お寺の中がどういう所なのか気になって覗いていたので、ほかにも興味を惹かれる人があってもいいと思ったからだ。自意識なのだろうか。
京都では社寺の境内通り抜けは日常なのだろうが、気後れして立ち入れずにいた私には、「通学路」となった清浄華院の裏門の奥が一点の景色として心に残った。それは自分の中に京都の情趣が涌いて、お寺の非日常世界にこじんまりと縮こまって入り込んだというような、言い表わしにくい心象だった。
路地の先はお寺の本堂に続き、通り抜ける時に身を屈めてその下を潜り抜ける、そういう気分の渡り廊下があった。潜り抜けるそのときこそ、心はこじんまりと縮こまる感覚で、小心な私にはその「関門」を通るのは若干気が引けた。見とがめられるかもしれない、しかし快感でもあった。京都の学生であったことの特権のようにも感じた。しかし、みんな自由に通り抜けていて、私だけ余計な神経を使ったが、清浄華院の関係者に出くわしたことはなかった。
有心館での授業は第二外国語に選んだ中国語だった。講師は中国人の先生で、四声を練習して、私たち学生が抑揚をつけようとして努力すると突拍子もない声が教室に響いた。その単語や四声の発音は、今も講師の教え方や教室の空気とともに思い出に残っている。ときどき授業で覚えた中国語が無意識に出てきて、今も発音してしまう。自身が楽しい。
喧噪の河原町とくらべ寺町は静かで、御所と梨ノ木神社の森を西にして、その対比から、河原町の溢れる陽光、寺町の落ち着いた静寂という観念を私は持っている。お寺という異なる世界を挟み、ふたつの違う感覚の通学路を行き来していたような気分が湧いてくる。
京都の市電が全廃されたのは昭和53年、私が5回生のときだったと思う。翌年卒業したが、さらに同じゼミの仲間から数年遅れ、回り道をして就職した。
もう一度清浄華院の裏門を入り、渡り廊下の下を潜り、寺町通りの有心館の授業に急いでみたい。
衣笠寮の最後の三か月
1972年(昭和47年)に産社に入学し、寮自治会の入寮審査を受けて入寮を許可されたのが取り壊し目前の衣笠寮でした。6月には双ヶ岡の西麓に新しく鉄筋の双ケ岡寮ができるからそれまでの仮住まいと聞いていました。木造二階建て、炊事場、トイレというより便所(なんと汲み取り式!)。風呂はなく銭湯通い。
しかしそこはバイタリティ溢れる新入寮生、五右衛門風呂があるのを見つけきれいに掃除。どうせ取り壊されるのだからと、建物の羽目板を剥がして焚きつけにし沸いたところへ意気揚々と体を入れるも底板を先に入れることなぞついぞ知らない都会育ち。あちちっと飛び出たことは後々まで語り草にされました。
カップラーメンはその頃まだなく、インスタントの袋麵に生卵を入れれば高級料理!たまに布団を干せば風にあおられて窓の外を流れるどぶ川に墜落、うちに電話して急遽送ってもらったことも。日夜、アルバイトに集会やデモに疲れ、昼過ぎにやおら起きだして徒歩3分の教室に駆け込み、大学生の本分たる学業に励んだものでした。
卒業後、上京した折に衣笠学舎に行くたび校舎が増えまた改装され、グランドがなくなっている。寮に足を延ばせば双ケ岡寮と同じ鉄筋打ちっぱなしの立派な建物になったかと思えば、いつの間にか駐輪場に衣替え。行きつけの近くの食堂のおばちゃんは学生が減ったと言ってました。
小人閑居して空想に耽れば、思い出すのはこの頃のことばかりです。
”あの頃はよかったなあ~”
大切な場所
千本通りにあるあのアパートは、今も忘れがたい場所です。下見をした日、入れ替わりである女の子と出会いました。すれ違い様に世間話。同じ編入生ということにお互いびっくり!すぐに打ち解けました。
4月、新生活が始まってまたびっくり!北海道から来たその女の子もあの千本通りのアパートに下宿先を決めていたのです。しかも、おとなりさん。以来、色々なところへ二人で遊びに出かけ、私の大学生活はその友達との思い出でいっぱいになりました。校友会へもその友達に誘われて参加しましたし、京都へも何度も旅行へ行きました。距離を越えて、素晴らしい友達に引き合わせてくれたあのアパートは、大学生活の中でもひときわ大切な場所として今でも私の心の拠り所となっています。
下宿の大家の小母さんとの想い出
NHKの朝の連続テレビ小説「ひよっこ」で、赤坂あかね荘の大家の富さんが登場すると、想いだすのが大学時代に4年間暮らした下宿の大家さんのことです。その下宿は、大学のすぐ近くで、敷地内に母屋と二階建ての離れがありました。離れに、大家さんである小母さんが一人で暮らし、二階の1つだけある和室に下宿をさせて貰っていました。大阪に住んでいたので、自宅通学をするのも可能でしたが、両親の強い勧めがあっての下宿でした。入学直後の頃の写真を見ると、独り立ちするのが不安で、沈んだ表情の自分がいます。今から思うと、過保護に育った娘を何とか、自立させたいと願う親心だったのでしょう。離れは、木造の純和風の造りで、古くて、二階に続く階段はミシミシと音がしましたが、掃除が行き届いていて清潔で、とても居心地の良いお家でした。最初に小母さんから「消防局から数分で燃え尽きると言われたので、火事には気をつけてね」と言われて驚きましたが、その後卒業までの4年間をこの下宿で暮らしました。
門限や決まりごとは、厳しかったですが、小母さんとの生活は楽しい想い出ばかりで、最初の頃の不安はいつの間にか消えていました。週に一度は夕食を一緒に食べていました。特に野菜たっぷりの鳥のすき焼きは、朝引きの地鶏を使いとても美味しいものでした。大学の友人が自由度の高いアパート等に移り住んでいく中で、私はその小さな下宿が気に入っていました。洗濯は、小母さんの洗濯機を借りて、干すときは離れの裏の物干し場を使っていました。その干し場の支柱がものすごく高くて、4メートルくらいあったでしょうか。小母さんから、先が二股になった長い竿上げで、物干し竿を片方づつ、支柱の一番上前まであげていくコツを教えてもらいました。干し終わると洗濯物が風にそよいで達成感があり、取り入れるとカラカラに乾いていて、お日様の匂いがしました。今でも風のある日には、その時の風景がふと蘇えります。
小母さんには、裕福な親戚や友人が多く、その家のお手伝いのバイトを探してきては、私に紹介してくれました。掃除や留守番だけでなく、家族全員が医者のお宅に早朝のコーヒーを入れに行くだけだったり、海外旅行に行く間の室内の花の水遣りをするだけだったり、私にとっては貴重な社会勉強になりました。
卒業後、しばらくして小母さんが入院されたと聞いて、病院にお見舞いに行くと、もう私のことは判らなくなっておられました。数年前に同窓会で大学に行った際に、久しぶりに下宿を訪ねてみますと、既に離れは無くなっていて、母屋と干し場の支柱だけが残っており、洗濯物が風にそよいでいました。大学時代を小母さんの下宿で過ごした4年間は、初めて他人の家で暮らし、京都の街と人の温かさを感じながら、自立していく大事な時間でした。大学に行かせて下宿の仕送りも十分にしてくれた今は亡き両親に心からの感謝をしています。
今に残る、法律相談部の「共同宿坊」
1970年当時は素人下宿が大半で、互いに集まり、飲み、語り、寝泊まり出来る所は限られていた。自ずと伝説の下宿で過ごした濃密な記憶だけが語り継がれ、後年、私達は知らず再び集うこととなる。
(1) 法相部の先輩御用達、勝手御免の「北白川」下宿
広小路学舎から銀閣寺行の市電を北白川で降りた文教地区に私の下宿はあった。家主は高齢の教祖様でほぼ不在のため、先輩と私で自主管理。法相部のデスク研で連日諸先輩から絞られた後、その憂さを晴らし人生と法律と文学を語り合う(?)拠点として部員が出入りしていた。時には大失恋した部員が一週間転がり込み、彼を励ます会が連夜開かれる始末だった。
そしてある夕刻、小径から部屋を見上げると既に電球が灯り人の気配が。鍵を掛けた筈なのにと慌てて飛び込むと、口を利くのも畏れ多い大先輩が「今夜はここでOB会をやるからな!」と宣告。知らぬは部屋主ばかりなり、次々と酒肴を持ち寄る部員で6畳の部屋は溢れ、やがては高歌放吟。宴が終わると隣室も問答無用で供出、押入れの中まで人が眠るという有様に。考えると、この下宿は部の先輩から代々引き継がれ、私も前の下宿を追い出され転がり込んだクチ。鍵の在処など先輩は皆先刻承知だったのだ。このようなことが学生なら許される時代と自己解釈していたが、やはり近所から家主に苦情は届いていたようだ。今は一帯がマンションに様変わりし当時の面影は無いが、そこには間違いなく熱くほろ苦い青春を過ごした時間と空間が存在したのであった。
(2) 今に建物と住人が残る、法相部の共同宿坊「内藤荘」
衣笠学舎を金閣寺方面へ歩くと、閑静な住宅街の木立ちの中、まるで「男おいどん」の世界にタイムスリップしたような異次元空間が出現する。それが「内藤荘」、かって東本願寺前にあった門徒用宿坊を移築して学生用下宿に転用したという、築70年木造2階建8室の存在感溢れる建物である。そしてそこには、45年前の法相部員K.O氏が唯一の住人として今も住み続けている。彼は様々な悩みを抱え転がり込んだ部員を受け容れる共同宿坊の役割を受け継ぎ、守ってきたのである。
時恰も台風18号が接近する本年9月17日、家屋倒壊を危惧しつつその脅威に負けじとここで「前後三年の集い」(’69~71年入学生を対象)を強行開催した。流石に九州等からの参加は無理になったが、今は亡き友の想い出など夜更けまで話は弾んだ。やがて当時のプライバシーも何も無いまるで法相部御用達の下宿に話題は及んで、その生き証人がこの内藤荘であるということをしみじみ語り合った。几帳面で綺麗好きな住人が自ら管理するこの建物、柱や廊下には丁寧にニスが塗り込まれ、部屋もよく片付き、長い廊下と階段を上がり降りする愉しさは別格である。これからも共同宿坊としての役割発揮が十分に期待可能〝いつまでも健在であれ、内藤荘と宿坊守!”