2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

市電で下駄履き通学

カランコロンと徒歩で自宅から、最寄の市電停留所まで、定期ではなく現金で毎日通学。塩小路―府立病院前を最盛期の市電河原町線で、、、

京都市立伏見工業高校の工業デザイン科の第一期卒業生。京都新聞の活字組部に就職も決定していたが、小学校中退の大正生まれの父が、「歳夫、頼むさかい大学を受けてみてくれ。立命やったら、月謝もやすいし。どや、やって見るか。」と珍しく懇願。電気アイロンの卒業制作(レイアウト・レンダリング・設計・油粘土で造形・石膏で試作・着色)の最中で、受験対策も0.受かる訳ないやん、と心の中では、、、すると、近所の立ッチャン卒のお兄さんが、「とっちゃん、昼間はきついけど、頑張ったら二部やったら、なんとかなる。大化の改新と明治維新をしっかりやっといたら、試験も大丈夫。」(???)

末川 博総長のご方針で、門戸解放&日本全国の若者に大学進学の機会を、貫かれていた時代でもあった。月謝も当時、私立では最低額クラスだったかと。 文系で採用人数が多かった法学部に挑戦。多分、最下位の成績だったと思うが、無事、合格。昼間は空いていたので、昔から憧れていた拳闘部に入部。広小路学舎上がるのジムに、朝10時頃開始の練習に合わせて、市電通学で。クラブ仲間は、鳥取県下の万屋(田舎の百貨店?)が実家のG君。寮生活の文学部哲学科。兵庫産で、市内下宿通学のH先輩。彼はよく「田舎の仕送りが遅れてて、この一週間、醤油メシや。野村。」とこぼしてはった。神戸から通学のI主将は、巨漢で笑顔が優しいミドル級選手。彼とフェザー級の僕だけ隣人の同志社大ボクシング部の先輩に、対等で試合に臨んでいたのも懐かしい。和歌山の大先輩で空手有段者の道場での合宿も、また鼻血ブーの思い出(笑)。

バイトは遊びを覚えるとの警戒心から、父から禁止されていた(1-2回生)ので、練習の無い日の午前中は、三条柳馬場の京都YMCA英語会話学院通い(月水金)。日本語の全くできない、1970年代のUSAヒッピーや英国から来た日本漢字研究中の紳士、知的でファッショナブルなアフリカン系の熟女、ハワイ生まれで色白な黒髪の日系美人などなど、多士済々なインテリ揃いの英会語学校だった。ボクシングと英会話が僕の青春、母校での講義は無欠席に近い皆勤だったが、熱心な聴講生ではなかったかも。

夜間の講義を終えると8時前後、昼の練習と長い講義で疲れてはいても、昼間の勤務を終え、眠い眼を押しての授業参加の皆さんを横にしていたので、神妙ではあった。年齢層も3-4割りは、年上の勤労者の皆様の印象でした。尼崎の職場からJRや市電を乗り継いでの通学だったS君。自宅から気楽に下駄履き市電していた僕は、今(来年古希)思うと、苦学なんかではなかった、お陰さまで恵まれた通学でした。小学校中退の両親に感謝の念強く、故人となった彼らへの報恩は、遅かりし由良の介なりしか、、、

 

私の通学路
                    
 広小路学舎で2年間、衣笠学舎で2年間学んだ。卒業して早や37年間が過ぎ去ったが、今でも途中の風景が目に浮かぶように思い出される。
 1回生の4月、縁あって父の古い知り合いが所有する千本中立売近くの倉庫の一室に寝泊まりすることになった。初めて訪ねた時には、何とにぎやかな、そして猥雑な通りの近くなんだと思った。千本日活、千中ミュージックがあり、商店街が南北にズラーっと並んでいた。しかし、一本細い筋に入れば、京都市民の質素でつつましい生活があり、私は突然にその中に飛び込んだようなものだった。始めの1年数カ月は広小路に自転車で通学していた。しかし、自転車が壊れてからは、運動がてら徒歩通学にした。徒歩通学にしてから、特に御所の中の季節の移り変わりが目に映り、素晴らしい体験をした。2年目の途中で、父の知人の都合で倉庫を出ることになった。千中の魅力に取りつかれていたので、近くの下宿屋に転がり込んで、千中暮らしと決め込んだ。買い物に便利で物価は安い、特に揚げ物屋が地域のマーケットにあって、よくお世話になった。フライ物を買ってきては、ご飯を炊いて腹いっぱい飯を食うことを覚えた。今から思えば、栄養バランスなんてあったものではなかった。腹が満たされれば、それでいいというレベルの暮らしだった。
 広小路学舎が閉鎖となる直前の3月に、杉田次郎がやってきてコンサートを開いた。「ああ、ここももう終わりか。」という感慨をもったことを覚えている。
 衣笠学舎へは、北野天満宮―平野神社経由で徒歩通学をした。歩くのに程よい距離だった。天満宮裏の喫茶店でコーヒーを飲みながら文庫本を読むのが楽しみになった。
 衣笠学舎に移って初めての新歓の時、衣笠・清心館前でブースを開いて新入生を勧誘した。以学館前で、合唱団「若者」が派手に歌を歌いながら踊っていた。我々は「社会地理学研究会」という固いネーミングのサークル活動にいそしんでいた。新歓や学園祭の夜祭の賑わいが忘れられない。遠い昔の何物にも代え難い学生時代の一コマである。当時の文学部地理学教室の諸先生方と学友たちに感謝!

宝ものの時代(あるアパートにて)

 京都駅でチッキの荷を受け取り、新生活の場所に向かったのは50年近くも前のこと。そこは、電停「高木町」から北へほんの数分のところにあった。2階建て木造アパートで、○○学生寮という表札が掛けてあった。ペンキの剥げた粗末なつくりの玄関の扉は大きく開けられ、防犯意識のかけらも感じられなかった。中に入ると薄暗い長い板張りの廊下が東西に伸びていて、廊下を挟んで部屋が左右にあり、左が南向き6畳、右が北向き4畳半で、2階を合わせて20数部屋あったと思う。当時の相場かどうかは判らないが部屋代は1畳当り千円(因みに大学生協のカレーは60円)だった。これは退去まで変わらなかった。雇われの管理人さんがいて、1階の4畳半の部屋に案内された。歩くと少し畳が沈んだ。窓にその振動が伝わって、薄いガラスが微かに震えて鳴った。鍵を掛けても隙間ができた。何より驚いたのは汲み取り式の共同トイレだった。その汚さに慣れるまで以後何日もかかった。慣れた後もあまり行きたくはなかった。そのせいで便秘にも悩まされる羽目になった。ただ、決してきれいなアパートではなかったが、結構人気があって空室になることはなかった。自分は伝手をたどって入ったのだが、新入生の入居者は一人だけだった。
 こうして大学生活は始まった。住人は他校の学生も幾人かはいたが圧倒的に多かったのは立命大生で、そのため程なくしてほとんどの人と懇意になって、部屋にも出入りするようになった。様子が分ると、羨ましかったのが6畳南向きに住まう上級生達の部屋だった。広く、明るく、暖かかった。窓の外には広い庭が広がっていた。反して自分の部屋の外にはカイヅカイブキの垣根が迫り、日当たりが悪く暗かった。冬はとてもじゃないが寒かった。願いが叶ったのは1年後である。
 下宿生活は本当に楽しかった。宝ものの時代だったと言ってもいい。ひとつ部屋に集まって、たびたび飲んだし、文学論議あり、雑談に興じたりした。徹夜でマージャンもした。また、家賃の交渉などしたこともある。ほとんどの学生が食費に事欠く貧乏で、毎日きゅうきゅうとしていたが気にしないし、明るかった。誰かに仕送りが届いたり、奨学金が入ると、その日は数人連れ立って飲みに行った。そして翌日から食費を削った。今も思い出すだに哀れで楽しい想い出だ。特に貴重な出会いもあった。2年先輩のTHさんだ。洞察力、胆力、説得力など皆が一目置く存在で、当時から気が合い、薫陶を受けた。氏とは関東と九州に離れた現在も生涯の友として家族ぐるみの付き合いがあり、年1回未だに先方のおごりで酒を酌み交わしている。こうして当時を思い出しながら書いていると、懐かしい顔が次々に浮かんでくる。あの頃一緒に過ごした皆は変わりなく息災だろうか、当時を振り返ることがあるのだろうか。
 これは、三島由紀夫事件や産社学部が広小路から衣笠へ移る頃の話である。

心の拠り所

 衣笠キャンパスに近い、嵐電等持院駅から南東に3分ほど歩いた場所に下宿していた。六畳一間のこじんまりとしたアパート。決して広いとは言えないがそこには思い出がたくさん詰まっている。等持院界隈は閑静な住宅街で、特に夜はかなりの静けさに包まれる。しかし、同じ敷地内に大家さん宅があり、大家さんが気さくに話しかけてくれたので寂しさを感じることはなかった。そんなのどかな雰囲気がたまらなく好きだ。嵐電が走り、市バスも近くを通るため、河原町や京都駅へのアクセスも良い。 大学までは歩いて10分ほど。ひたすら住宅街を通る。アパートを出ると間もなく等持院駅が見え、踏切を渡る。1両編成の嵐電がのんびりと通りすぎる。直進し、突き当りを右に行くと町名でもある等持院の入口がある。ここは庭園が非常に美しく個人的にはかなりお勧めの観光地である。ちなみに等持院の入口西側にポツンと1軒「馬馬虎虎」という定食屋があり(当時)、お世話になっていた。安く、ボリュームもあり、家庭的な味でおいしい。店員さんも気さくで、大学での出来事などの話をしていたのを思い出す。ちなみに今は居酒屋に変わってしまい、とても寂しい。等持院の横の道を直進すればキャンパスの南門に着く。約1キロ程度の通学路であるが、思い出の詰まった最高の場所である。1限の授業に行くときは朝8時台に歩くが、とにかく空気がきれいで清々しい。周りには山もあり景色も美しい。小鳥のさえずりが絶妙にマッチする。東京育ちの私にとっては初めて味わう感覚であった。排気ガスの混じった空気や満員電車など、通勤、通学は疲れるだけのものというイメージであったが、そのようなものとは一切無縁で、むしろ朝から健康的であった。授業に集中できたのもこういった環境のおかげかもしれない。
 現在は地元の東京で働くが、卒業後も毎年定期的に京都に行っている。学生時代の友人と会ったり、観光もするが、毎回欠かさず衣笠キャンパスと等持院界隈に行く。そして、大学からアパートまで在学中と同じように原点である通学路をたどる(大学に行くと自然と体が通学路に向いてしまう)。お世話になったアパートの大家さんにも必ず挨拶に行くが、いつも「おかえり」と笑顔で迎えてくれる。まるで実家に帰った気分だ。大家さんへの感謝の気持ちは一度も忘れたことがない。何の変哲もない道だが、ここを歩くと人生で一番楽しかった時代に浸ることができ、ほっとする。私の中では最もリラックスできる場所である。日々、疲れやストレスが溜まるが、このような心の拠り所があることは本当に幸せであると常に感じる。今となっては習慣のようになっているが、今後もこれを必ず継続して行く。

市電北野線

 大学への通学は市電でした。1年目は丸太町通りを、2年目からは今出川通りを通って衣笠校前まで乗って行きました。入学当時は北野線も走っていました。堀川丸太町や北野神社前でよく見かけました。その北野線が昭和36(1961)年7月で廃止になりました。夏休みに入っていたので写真を撮りに出かけました。堀川中立売が人気の撮影場所だったと思います。また、北野線は狭軌だったので、四条通りは三本レールになっていたのがめずらしかったです。昭和53(1978)年9月には市電が全線廃止になり、今衣笠へは市バスで通学する姿を時々見ています。

 私は昭和40年代後半からの4年間を上賀茂神社近くの大宮寮に暮らしました。寮は鉄筋コンクリート4階建で、屋上に共同の洗濯機とシャワーがありました。三畳一間にベッドと机を押し込んだ狭い部屋に息苦しさを感じた時は、ここで洗濯をしながら辺りの景色を眺め気分転換をしたものです。各階に共同のトイレと洗面所、そしてコインを入れると一定量のガスが利用できるガスコンロがありました。たまに使い残しがあるとラッキーな気分になったものです。3階の私の部屋には様々な侵入者がありました。ハチやゴキブリの騒動はまだしも、臨戦態勢でこちらを窺う巨大なクモに気付いた時の驚きと恐怖は背筋が凍りつくほど衝撃的で、今なお記憶に鮮明です。1階に住む管理人さん夫婦には4年の間こと細かく寮生活を支えてもらい、只々感謝の思いです。暑さも一段落した夏の夕暮れ、寮の玄関先にはたくさんの鉢植えに揃って水やりをするお二人の姿がありました。
 学部のある衣笠へは市バス76系統で、上賀茂神社前から堀川通、北大路通を経て西大路通を下がりました。車内放送のあの独特のイントネーションが今も耳に残ります。帰りは時々途中でバスを降り、大宮通の商店街で買い物をしました。両手に米袋や野菜を抱え近所のおばさん達と一緒にレジを待つ気分は、いっとき京都市民でした。西大路通の路面中央を市電が走っていました。大きな車体を左右に揺らしながら路上に浮かぶ小さな島のような電車乗り場にやって来る姿は、どこかユーモラスで親しみを感じるものでした。西院で阪急電車に乗り換える学友達を乗せ、ゆらゆらと沈むように視界から消えてゆくその後姿を、私は一人帰りのバス停から見送ったものです。アルバイト先の三室戸へは三条から京阪電車を利用しました。車窓から眺めた鴨川沿いの風景、そして三条界隈の賑わいも今はなく、思い出の入口が消えてしまったような戸惑いと寂しさを感じます。
 上賀茂神社を前に毎朝バスを待ちました。見上げる一の鳥居の威容に俗塵を寄せ付けぬ厳かな気配を感じ、鳥居越しに見る参道奥の世界に興味を引かれながら私はどうしても僅か一歩を踏み出すことができませんでした。割り切れぬ思いのまま時は過ぎ、人生の過去と未来の割合が転じた頃のこと。歴史への関心の高まりに伴い、懐かしさが日増しに募るようになりました。機会を得て再び京都を訪れ、何かに導かれるように私は初めて一の鳥居をくぐり抜けました。折しもの葵祭御禊神事に深い感銘を受け遥か平安の昔に思いを馳せた時、私は確信しました。ここに至るには距離ではなく時間が必要だったのです。まだ備えの無かった当時の自分とその後の人生を静かに肯定し、私はおもむろに踵を返しました。目の前には再び一の鳥居。にわかに込み上げる畏敬と感謝の念に思わず足を止め、私は一の鳥居に向かい深々と頭を垂れたのでした。

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