2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

再会

 今からおよそ60年前、私は平安神宮近くに下宿して、広小路の学校に通っていた。その日の朝は寝坊して授業に遅れそうであった。いつも学校まで2キロほどある丸太町通りと河原町通りを歩き広小路の学校へ出かけるのだが、その日は急ぐため市電に乗り込んだ。まだ京都では路面電車が走っていた時代である。
 その日は民法のゼミで、私が発表することになっている重要な日であった。学校近くの停留所に来て降りようとした時思わぬことに気が付いた。急いで下宿を飛び出したため財布を忘れてきたようである。電車の降り口で困った私は運転手に
「急ぐあまり財布を忘れて来たようです。電車代は後日事務所にお届けに行きますので、この万年筆を預かってください」と申し出た。
 その万年筆は大学に合格した時、父がお祝いに買ってくれた高価なモンブランであった。
 その時、二人の会話を聞いていた年のころ40歳くらいの主婦と思われる方が
「学生さん、これをお使いなさい」と言って電車賃を手渡してくださった。思いがけない援助に私は涙が出るほど嬉しかった。頂いた電車賃を支払い電車を降り同時に電車を降りて見えた夫人にお礼を言い、
「お名前と住所を教えてください、必ずお返しに参ります」と私は頭を下げ言った。
「学生さん、気になさらないで」と言うと笑顔を残して去って行った。その婦人を見送ると、学校へ急いだ。その日の発表は、お陰で無事終えることが出来た。
 その日以来、私は何時も2キロほどをのんびり歩いて学校に出かけるのを、時々電車に乗るようになった。先日と同じ朝の時刻に電車に乗り込み、忘れもしない婦人に会って電車賃を返却し、もう一度お礼をしたいと考えていたからである。しかし、あれ以来例の婦人に逢うことはなかった。

 2年が過ぎた。同じ下宿にいた先輩は年が明け卒業することになった。その際、家庭教師で教えていた中学生の女の子を君が代わって教えてくれないかと頼まれ、その家庭教師を引き受けることになった。
 11月、青空がいっぱいに広がった小春日和の日、私は先輩に連れられ女の子の家を訪ねた。白川通りにある小奇麗な住まいだった。扉を開け声をかけると女の子が現われ、お母さんを呼ぶと、見覚えのある婦人が現われた。私は思わず「あっ」と声を上げた。
 そのお母さんこそ忘れもしない、私に電車賃を下さったご婦人だった。不思議な縁で忘れもしない婦人にお会いでき、改めてお礼を申し上げた。彼女も私の事を覚えていて笑顔で迎えてくださった。先輩も女の子も、思わぬ2人の再会に目を白黒させていた。

腹が減っては戦ができぬ

 当時田舎の進学校から上洛したばかりの私は、自炊も未だおぼつかない青二才でした。立命の法学部で与えられる課題は新入生の時が一番大変で、学業のかたわら生活する(食べてゆく)ことの困難さをいやというほど感じさせられました。そんな折、ことあるごとに下宿から外へ出て外食するのですが、生まれて始めての関西、いや京都の食に対する太っ腹がその当時の私の学生生活を天国にしてくれました。良くも悪くもパラダイスキャンパスとは正にバブル時代=立命館大学を指した言葉と言って疑いの余地はないでしょう。現代では笑われてしまうDCブランドの全盛期にあって、真逆の雰囲気をかもし出していた立命大キャンパスの食堂は、いつもこれでもかといわんばかりのボリュームと、安くてメニュー豊富な学生向け定食が常時ラインアップしていたものでした。メインの存地下食堂は言うに及ばず、夏の暑い日の夕方、今では移転した産社のそばを通ると、いつもその地下にある食堂から絶えずもわ~っと、或は、まったりとしたおいしい匂いがあたりに充満していて、地方のエリート進学校から出てきたプライドなどこっぱ微塵に吹き飛ばされていたものです。何物にも変えられない幸せが確かにそこにはありました。当時、おしゃれとは言い難い緑色のプラスチックトレーに自分で選ぶ単品の惣菜類小皿に加え、学生好みのこってりとした油物類に得も言えぬ幸せが本当にありました。できることなら田舎の家族達にも食べさせてあげたいと思ったくらいです。苦学生で有名な立命館とは全く正反対で、まるで外国の国王が大使館で食する日本料理をはるかに越えていたと思います。今から思えば、私が単におあがりで、東日本出身の子供だったからなのでしょうか。舌の肥えた周りの友達を裏目にし、内心は正真正銘の満足感を得ておりました。
 当時「王将」を知らなかった私が始めて店に入った日のこと、「いらっしゃ~い」。いかつい男の店員ばかりが熱風吹き上げる厨房にいて、「何しまひょ?」。私はとっさに「中華丼ください」と小声で注文しました。すると店員、「ちゅうどういーがー」。「あいよー」。19,20才程度の私は萎縮してしまいます。あっという間に目の前に注文品を出してくれます。圧巻は精算の時です。「兄ちゃんのちゅうどんなー。280円、それと烏龍茶サービスやわ、おおきにまた来てな~」。田舎だと450円から800円ぐらいが相場です。今から思えば私のカルチャーショックと天国の始まりでした。等持院近くのジャンボお好み焼きや、ドデカイ丼にゼリーのようなあんかけしょうがうどん屋さん(失礼、たぬき)でした。青春多感な時期を過ごさせていただいた立命館大学、そして京都の思い出は、偏屈な私を「僕」に変えてくれた永遠の宝物です。近くまた京都、母校に会いたいです。

遊学の4年間

 立命館大学の入学の動機は、千年の古都・末川博名誉総長の「未来を信じ、未来に生きる、そこに青年の生命がある」。この教えの通り、立命館の自由で開放的な環境での学生生活は希望にみちでいました。
 末川六法全書を持ち広小路の存心館で法律学の講義を聴いた時、衣笠で湯川博士の特別講演を聞くことができた時の世転びは深く心に残りました。
 賄い付きの下宿は、加茂川沿い、北大路橋近くの静かな民家でした。すでにO大学生、D大学生の先輩がいて、私は下宿の子供の家庭教師を頼まれました。山紫水明な自然の色、加茂川河川敷の散策は楽しみとなりました。年末試験の勉強をしていた12時頃屋台ラーメンのチャルメラに誘われ下宿の窓から注文。翌朝下宿のおばさんから二度としないようにとたしなめられました。
 通学は緑の市電で京都府立医大・立命館大学前―出町柳―糺の森―下鴨神社―北大路橋―烏丸車庫を4年間通いました。
 2回生の8月、急性盲腸炎で京都府立医大に入院。手術を執刀した医師は高校の先輩で安心して治療ができました。退院後毎日K看護婦が見舞いにきました。1週間後、突然母が上洛。その翌日からK看護婦は姿をみせません。下宿のおばさんか心配して電話をかけた京女のほろ苦い思い出です。
 下宿のO大学生(4回生)は四国の由緒ある名刹の出身で関西学生連盟の卓球の理事を務め、外出が多く生臭坊さんで通っていました。彼が突然分厚い仏教の経典を示しながら、卒論にしたいのでまとめてくれとたのまれ断りきれず適当に抜粋して訳したことも忘れられません。風聞によれば四国の高僧とききました。
 3回生になり心機一転勉学に励むべく、下鴨に移りました。食事は外食で、当時外食券が必要でした。その後大学に大食堂ができ、大へん便利になりました。
 下宿は十畳の部屋で暗い細長い土間の先に庭がありその奥に五右衛門風呂があり驚きました。下宿の御婆さんの京ことばには艶があり、着物姿は、老いの洗練された美しい方でした。
 6月から7月は大へん蒸し暑く冬の底冷えは耐えました。3回生になり授業は全科目受講し期末試験を受け4回生を待たずに卒業単位を取ることができたが後に校則で制限されていることがわかりました。
 4回生になり向学心は薄れ四条河原町高島屋でアルバイトを始め、同立戦で「赤い血潮」を歌い、学園紛争や円山公園で国会解散を求めた全学集会のデモに参加。帰り道、河原町の歌声喫茶でロシア民謡を合唱し、スナック(ハイボール二杯500円)で気炎を上げました。
 県人会をたちあげ、京大・府立医大・同大・同女子大・京女子大・光華女子大生の参加を得て、名所・旧跡・宿坊を訪ね打ち上げは河原町「木村屋」で乾杯。京文化、歴史、芸術を自然に体験できた遊学の4年間でした。

私の通学路=小旅行

私が大学を卒業してからもう20年近くたちました。立命館大学での思い出は楽しかったことが多かったのですが、振り返ってみると「よく通ったよなぁ」という気持ちが一番に出てきます。なんせ私の自宅は大阪府の南部にあり、自宅から衣笠キャンパスまで自宅から自転車で最寄り駅まで行き、南海高野線、地下鉄御堂筋線、京阪電車、京都市バス乗り継いで片道3時間ほどかかったのでした。三回生時に交換留学プログラムに参加したので実質は3年間ですが、毎日小旅行をしている感じであっという間に過ぎさった大学生活でした。
入学前私は「とりあえずどこか四年制大学に受かりたい」と一心不乱に勉学に励み、受かった後のことは何も考えていませんでした。立命館大学を受けたのは、たまたま高校の進路指導室に願書がおいてあり、無料でもらえるので「これはお得」とお試し受験で使わせていただいたら受かったのでした。私は双子できょうだいも同様に進学を予定していたので、下宿するという選択肢はありませんでした。当時はまだ子供で京都と大阪なんて隣同士なんだから通学なんて楽勝とすごく楽観的に考えていたように思います。実際新学期が始まって同じクラスの石川県出身の女の子から「えー、3時間だったら石川からサンダーバードで来るより時間かかってるよ。なんで下宿しないの?」と言われて初めて自分の通学が結構ハードなんだと認識したのでした。
通学に時間がかかるため、初めての親睦会を兼ねたイベントに遅刻して参加し損ねたり、レポートの提出に間に合わせるために市バスの中で文字を書きなぐったりと時間に追われてずいぶん変わった人に思われていたようです。慌てて起きて遅刻しそうになった時、とりあえず必要なものを無印の黒のトートバックに手当たり次第に放り込んで大学に行ったら中から目覚まし時計が出てきたこともありました。
ただ自分がだらしないからへまばかりやってたんだなと今では苦笑いしか出ませんが、それでもだんだんそんな生活にも慣れ、失敗から学んだこともたくさんありました。得られた教訓は今でも私の財産になっています。当時は下宿してキャンパスライフを満喫している人をうらやましく思っていましたが、早朝に自宅を出てから朝日の中を走る電車に乗っているとなんだか気分がワクワクして元気が出てきたり、帰りに寄り道をして、鴨川のほとりで涼んでから帰ったり、河原町をぶらぶら歩いてから家路につくのは結構楽しく今でもすごくいい思い出になっています。工夫次第で大変なことも乗り越えていく胆力を私は通学路で鍛えてもらったと思います。

福王子神社での下宿生活

 大阪の姉が賄い付きがいいという事で、右京区宇多野の福王子神社の神主さんが大家さんの下宿を見に行きました。3畳の部屋がL字で5つあり、3回生が3人入居で、2部屋が空いていました。学校に近く、賄い付きで安心だと、お世話になりました。隣りの部屋とは襖で仕切られ、机を置いて、冬、こたつを出したら空きスペースはありません。家賃は最初、月~金二食付き(朝、夕)で8,000円だったと思います。ガスは、火事が心配と事で無く、電熱器の使用でしたが、水道光熱代は皆込でした。
 住所は京都市宇多野福王子町だったと思います。大家さんの奥さんは60代位、いわゆる京都弁で、何ともいい感じで、下宿生は「お兄ちゃん」と呼ばれ、ご飯の準備が出来た時など、この京都弁で声を掛けて貰い、今でも耳の片隅の響きが残っています。
 下宿の庭には井戸があり、由緒のある井戸で、京都の名井戸にも含まれていると聞きました。時々、この井戸水を貰いに来られる方がいらっしゃいました。当時は、そんなに由緒正しい井戸とも知らず、洗濯はこの井戸水でし、特に寒い冬は大助かりでした。ただ、この井戸水での洗濯は一回生の冬までで、二回生になった時に、先輩が洗濯機を貰ってきて、以来洗濯でこの井戸水を使用する事はありませんでした。(洗濯機は本当にありがたかったです。)
 大家さんの庭には柿の木があり(甘柿)、秋になると銭湯の帰りに一個頂いては(内緒で)夜食替わりに食べました。また、秋は福王子神社のお祭りで、みこしが本殿に飾られます。下宿生が二人ずつ交代で、本殿に泊まり、このみこしの番をしました。夜食でうどんが出るのが楽しみでした。そして、祭りが終わると奉納された日本酒を頂き、それを竹筒に入れて、庭で燗をし、竹製のコップで飲んだお酒の味は竹の香りがお酒に染み込みとても美味しく、今でも忘れる事が出来ないいい思い出です。
 四年間お世話になりましたが、今思うと一つ残念な事は、神主さんの見習いの資格を取りませんか言われて辞退したことです。あの時取得していれば、他の神社への応援など色々な経験も出来たかもしれないと後悔しています。賄い付きの下宿だったので、規則正しい生活が送れ、また、下宿生の5人中、4人が理工学部だったので試験勉強の時などリズムが合いました。
 思い出深い下宿生活ですが、先日ラジオで、この福王子神社の狛犬が修理され、金銀に輝く色彩が施され、修理後京都市歴史資料館で初めて公開展示されていると聞いてビックリしました。展示期間中に見に行けたらと思いましたが、行けずに残念でした。神社仏閣は色々と拝観しましたが、灯台元暮らしで、お世話になった福王子神社の事をもう少し勉強しておけば良かったと思っています。

50年後に待っていた奇縁
 
 「平成29年5月10日ケシ山ロッジ同窓会。午前10時30分、立命館大学茨木キャンパス正門集合」との電話。ケシ山ロッジとは、立命館に紹介してもらった北区深泥池畔の下宿屋さん。法学部2人。文学部1人、その他経済学部、経営学部とで10数人いて、全員が昭和39年(東京五輪の年)の立命館大学広小路キャンパスの新入生。経済と経営は2回生から衣笠に移転したので、一緒に過ごしたのは1年足らず。52年ぶりの再会だったが、一目で紅顔の面差しを見つけた。昔、荒神口にあった恒心館に隣接する「くに荘」の大部屋に泊まり懇親を深めた。最後は校歌斉唱。応援団長を務めた男がいたが惜しくも早逝。その団長の留年に付き合って、5年間同じ下宿で過ごした男が団長の演武を覚えていて、校歌に合わせて舞ってくれた。翌日、ケシ山ロッジを訪ねた。市バスの中で見ず知らずの婦人に、私たちが52年ぶりに再会し、昔の下宿を訪ねる話をすると、その下宿をご存じで驚かれた。昔は幽霊騒動があった山里も、今は瀟洒な住宅街になっていた。
 皆とは、出町柳で別れた。2回生の秋から移った左京区浄土寺の下宿を訪ねたくなった。お世話になったおばさんは父と同じ年。卒業後も、京都に行く度に泊めてもらった。新婚旅行や娘が3歳の頃にも顔を見せに連れて行った。平成10年、職場の旅行の際に訪ねたのが最後となった。10数年前に亡くなり、その娘さん(私より2歳上)も結婚されて岩倉にお住まい。今では空き家か更地にと想像していたが、家は昔のままの姿で建っていた。ここから、数々の驚きが始まった。家の写真を撮り帰ろうとして、玄関脇を見ると見覚えのある表札が掛かっていた。玄関も開いていて、若い女の方が顔を出された。「私は、50年前にここの2階に下宿させていただいていました」と挨拶すると、中からご主人が出てきた。名刺を見ると、昔おばさんに聞いたことのあるお孫さんの名前。彼は、写真家になって、この家に住んでいるとのいこと。「母に電話するから、上がって待ってください」と言う。岩倉から来てもらうのも気の毒なので遠慮したが、どうしてもと勧められるので待つことにした。その間に、私が借りていた部屋を案内してもらった。壁が漆喰になった以外は昔のまま。「隣の部屋に、祖母の位牌を祀っているので、お参りください」との申し出。まさかここでおばさんのお位牌に会えるとは、喜んでお参りし心の中で経を唱えた。娘さん(昔の)にも28年ぶりに会えた。ご主人は九州の方で、私のイントネーションが似ているとのこと。出身を尋ねると福岡県三潴。私が育った柳川市蒲池は、以前は三潴郡蒲池村。家は川を挟んで三潴郡に接していた。出身高校は伝習館。なんと私の母校。そして立命館へ。ふと思い立って訪ねたのに、若いご夫婦のさらりとしたオモテナシが嬉しかった。それにしても50年後にこんな暖かな奇縁が待っていたとは。

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