下宿生活の大学時代
私の最初の下宿先は下鴨中川原町であった。
町家の2階建ての大学生相手の下宿屋で私を含め7名の下宿人である。当時は畳1畳千円で4畳の間取りであった。下宿生活は共同生活で外食・銭湯・洗濯等生活様式がガラリと一変した。
私は法学部なので広小路学舎に通学した。行く道すがら先輩のKさんは岩波の六法全書は西の立命館の末川博で有斐閣の六法全書は東の東大の我妻栄の監修であると誇らしげに話をしてくれた。末川先生は1回生の「法学」の講義の時、70歳を古希というのは唐の詩人杜甫の「人生七十・古来希なり」に由来する。「もっと世の中がどう変わるかを見たい」と語った。そういう私は今年70歳(昭和44年法卒)になり、先生の味わい深い言葉をかみしめている。「法の理念は正義であり、法の目的は平和である」として「平和と民主主義」を学んだ。
下宿からは市電で植物園前から河原町の府立医大前で下車した。毎朝90円の学食を食べた。クラブはESSに入り友人もでき下宿をお互い往来した。ESSでの信州での合宿では小泉八雲の「雪女」の英語での短編発表で暗記に努め部員の前で発表した思い出がある。又私は広島大学から立命館の産業社会学部の教授で赴任されてきた社会学者の中野清一教授のお宅に宇治によく出かけた。中野先生は私の父(五族協和の建国大学一期生)の満州建国大学時代の先生であり、親子二代のご縁と奥様共々語り、「作田君!明日の講義はあるの...?そうであったら下宿暮しだし泊まっていったら」と云われ何度か泊めて頂き朝食に初めてのオ-トミ-ルをご馳走になり今でもその味が忘れられない。
京都の夏は暑いし冬は寒い。冬は鴨川からの風は冷たい。1回生の1月のテスト時は漏電するからと炬燵が使用できず腰に毛布を巻き足温器で暖をとり単位を取るべき勉強した。
2回生から新京極の六角通り堺町の町家の炬燵の使える下宿に移った。2階の4畳の部屋でいつも格子戸のひもを引っ張り鰻の寝床に入った。大家の一人暮らしのおばさんは匂い袋を縫って晩遅くまで仕事をしており、私は学生の身でおばさんより早く寝てはまずいと思い実行した。毎朝、テレビの朝ドラの「おはなはん」のメロデ-が快く流れ聞こえた。夏は祇園祭りの宵山のコンチキチン,コンチキチンの鐘の音が祭りの気分をさらに掻き立てた。4回生の時、研心館から講義を受け外に出てきた時、研心館前に立っていたわだつみの像がロープで引き倒されて無残にも破壊されていた。平和のシンボルとして戦没学生祈念像として建立されたものを想うと心が痛み全共闘に対し怒りを感じた。ノンポリの私は学園を守ろうと存心館前で有志と両腕を組み防戦した。放水で水をかけられたが必死で帰れコ-ルを何度も大声で呼びかけた。
下宿に帰り、水をかけられた衣類を洗いながら全共闘運動は間違っていると心で叫んだ。
私の昭和44年の大学時の卒業式は無く卒業証書は法学部事務室で頂いた。
“門限9時”からスタートした下宿の思い出
平成23年4月米原で開催の第5回「川本ゼミ」旅行は、卒業40周年の節目に当たるため、衣笠キャンパス以学館で恩師川本先生の模擬授業を行った。開始まで余裕があったので、学生時代の下宿に行ってみることにした。卒業以来下宿を訪問するのは3度目で、徒歩15分程の処なので直ぐに分かったが、新しく建替えられ表札も変わっていた。戻りながら、40数年前友人達と飲み食いした思い出のある飲食店も、殆ど昔の面影が無く変わってしまっており一抹の寂しさを覚えた。
4年間替わることなくお世話になった下宿とは、ひょんな事から決まったのだった。佐賀の実家のご近所に、父の碁仲間で裁判所に務めている方が単身赴任で良く我が家にみえていた。私が立命館大学に進学すると知ると、前任地が京都だったそうで大学の担当の方をご存知で、紹介して下さったのだった。それで、京都に着き早速大学に担当の方を訪ねると話が通じていて、カードを持ち出し「一戸建てで女子学生を希望のところだから、しっかりしているだろう」と、おばさんのところを紹介されたのだった。訪ねて行くと、最初の一言が「門限は9時ですからね、いいですね!」と唯それだけ厳しく言われたことを、今でも鮮明に覚えている。
下宿先はおばさんご夫婦と娘さん、下宿生は女子学生1名と新入りの私で、部屋は四畳半、風呂も利用可能、下着類の洗濯もおばさんがやって下さり下宿代は5千円だった。当初風呂や洗濯は大変助かったが、女子学生がいたことや“門限9時”を守るため気を使い、また紹介してもらった手前迷惑はかけられないと思い必死だった。妙心寺の南に自宅通学の友人がいて、つい話し込んで遅くなると妙心寺の長い参道を駆けて帰ったものだ。そして、半年程これまでにない‘真面目な’生活をしていると、信用されたのか玄関の鍵を預かり、今度は“用心棒”を担うようになった。それから遅くまで友人達と議論したこともあったし、年に何度か同郷の高校時代の友人4、5人が夜遅く来て雑魚寝したこともあったが一度も小言を言われなかった。また、近くには名刹が多く特に仁和寺の桜、雪が降った日の金閣寺は素晴らしく忘れられない。竜安寺や仁和寺の境内は日々‘無料’の散策コースであった。
卒業してから下宿のおばさんとは年賀状のお付き合いは続いていたが、最初に訪問したのは、銀行に就職して4年目の昭和50年11月結婚相手が決まり、紹介のため名古屋から訪問し大変喜ばれた。その後仕事が忙しく京都を訪れる事が無く、会える機会も無かったのであるが、平成2年娘さんから不幸連絡を受け、2度目としてご仏壇にお悔やみに伺ったのであった。
70年安保闘争や学園紛争が華やかりし頃の京都で、部屋代や様々な問題等で下宿を移る仲間も多かった中で、静かな環境で恵まれた4年間の学生生活を送れ、厳しかったけれど優しかった下宿のおばさんに、今になっても感謝するのである。
大学時代の記憶は今も色あせず…
私が入学したのは1984年4月、衣笠キャンパスへの移転完了の2~3年後…だったと記憶しています。
高校卒業まで実家暮らしだった私は、下宿探しのあてもなく大学事務局を訪れ、正門から徒歩数分の下宿(●●荘)を紹介されました。そこは長屋をベニヤ板で区切った仕様で、プライバシーの点では難ありでしたが、下宿代15,000円の魅力には勝てず、2年お世話になりました。その結果、●●荘では入居者間の交流が頻繁にあり、今でも交流が続く友人を得ることができました。首都圏出身のA氏はサラリーマン数年を経験して父親の事業を継承、中国地方出身のM氏は地元の金融機関へ。また、大学に近かったので、時には自宅生や他の下宿生の溜まり場となり、交流を深めることができたと思います。
入学当時は木辻馬代の交差点に有名な喫茶「ピエール」がありましたが、2年ほどで閉店しました。また、「ピエール」から木辻通りを少し東へ行くと「まざあぐうす」があり、「かぼちゃのケーキ」を食べた記憶があります。さすが立命と驚いたのは、生協が運営する喫茶「ゆんげ」…私のイチ推しは「ねくらパフェ」300円でした。
生協といえば、存心館(法学部)と学而館(産社)、以学館(経済・経営)に学食があって、経営学部在籍の私にとって以学館が身近でしたが、存心館にはCO-OP書店(確か…市価の5%引きで書籍が買えたと思う。)があったので、「統一ランチ」(京大、同志社との統一メニューの意味だったか?)430円をよく食べていたと思います。
また、大学の東門周辺には「くれたけ食堂」や「べんけい」等、喫茶「ピエール」から馬代通りを少し北へ行くと「グリル衣笠」、といったワンコインで食べられる食事処があり、ややリッチな時には利用していました。
また、●●荘には風呂がなかったので、近所にあった銭湯「小松湯」「扇湯」「金閣寺湯」へ通いました。当時の銭湯代は230円ぐらいでしたが、仕送り日の前には隔日に利用するなど切り詰めていたと思います。時代の流れとともに銭湯も少なくなったようですが、噂では「金閣寺湯」は現在も営業しているようです。
とにかく、とにかく、大学時代の記憶は今も色あせず、懐かしいことばかりです。
贅沢な通学路
埼玉県出身の私が、中学時代に修学旅行で訪れた際に観た京都の風情ある町並みに感動して、地元の関東ではなく京都にある立命館大学へ進学し、上京区千本今出川の下宿に引っ越したのは1998年の春の事でした。法学部のある衣笠キャンパスへは、下宿から自転車で15分。千本今出川から西へ、観光客で賑わう北野天満宮前を横切り北野白梅町まで行き、そこから西大路通を北上して平野神社前を西へ曲がり、小松原郵便局の横を通り大学東門から入るというのが、当初の通学路でした。
しかしある日、地図を観ていて「花街である上七軒を経由した方が距離的に近いのではないか」と思い立ち、千本今出川から上七軒へ、上七軒の花街に沿って斜めに北上し、北野天満宮の裏を通り、平野神社経由で大学へ行ってみたところ、北野白梅町から平野神社前までの地味にきつい上り坂を通らないため疲労が少なく、しかも観光客でごった返す北野天満宮前や北野白梅町のバス停を避けられるため既存のルートより5分ほど早く辿り着ける事が判明。以後はその上七軒ルートを「ワープ」と呼び、通学路に使用しました。
このルートは偶然にも実に京都を満喫出来、例えば上七軒を通れば歌舞練場へ稽古に行く舞妓さんや仕事へ向かう芸妓さんを何度も登下校時に目撃出来、また、毎月25日の「天神さんの日」に北野天満宮裏を通ると「天神市」という骨董市で賑わう様を目の当たりにする事が出来ました。
北野天満宮や平野神社の前を通れば、冬は菅原道真公ゆかりの梅を、春は花山天皇ゆかりの桜を堪能出来、また毎年12月下旬の日曜日に西大路通沿いに立てば、全国高校駅伝で都大路を疾走する選手達を間近で観る事が出来ました。
大学の定期試験の時期になると、取り敢えず北野天満宮へ毎回お参りに行った事(天神様の御利益の御蔭か、4年間で無事卒業)、平野神社で花見をした事や振られた事、通学途中にあった小松原児童公園でサークルのバーベキュー大会をした事、上七軒の雰囲気あるビリヤード屋で遊んだ事や、テレビの撮影現場を何度も目撃した事等々…通学路の思い出は他にも尽きません。
「京都の大学生だったからこそ経験し、感じられた贅沢」を味わった日々が、今でも私の良き思い出として心に深く残り、また日々の活力となっています。大学時代の思い出の一端として京都の美しい風情を語れるのは、京都にキャンパスのある大学に通った者だけの特権。そういう意味で、進学先に立命館を選んで良かったと思っている校友は私だけではない筈。もうすぐ校友会設立100周年だそうですが、そういう(京都に憧れ上洛した地方民の)想いの積み重ねも伝統となり、迎える100周年だという事を、一地方出身者として主張したい今日この頃です。
「松萬荘(まつまんそう)」の想い出
昭和48年3月中旬頃に学生課の斡旋で左京区岩倉に新築の学生用アパートがあるというので見に行ったら、棟上げが終わったところであった。日当たりが良い南側の部屋は既に予約済で満杯だったので、2階の北側の真ん中の部屋に決めた。四畳半押入あり、共同の風呂・共同の洗面場・共同のトイレ付で月額7500円の家賃であった。大家さんのご厚意で家賃を4年間据置にして頂けたのは非常に有り難かった。洛北であり冬は時に豪雪が積もるほどに寒かったが、炬燵だけで何とか凌いだ。また夏は盆地なので猛烈に暑かったが、団扇だけで凌ぎきった。アパート横の道路で下駄をはいて友とキャッチボールをしたこと、近くのゴルフ練習場に初めて行った時にクラブがすっぽ抜けて飛んでしまったこと、広小路学舎まで通学するのに往復で最低1時間は歩いたこと等が懐かしく想い出される。また年に1回程度だったが大家さんの飼っている鶏を捌いて頂き、お宅の座敷で鳥すきを皆でご馳走になったが、まさに絶品であった。そして松萬荘の庭で行った中秋の名月を愛でる観月会は、ご近所の迷惑も顧みず寮歌や応援歌等を高歌放吟して、まさに青春を謳歌した。今から思えば、本当に古き良き時代であったと思う。
一昨年クラブの同窓会で京都に行った折に岩倉を訪ねたが、駅前に随分とあった学生向けの食堂や書店もなくなっており、田園地帯は住宅団地へと変貌を遂げており、すっかり様変わりしていた。松萬荘は老朽化して取り壊されたのか既に跡形もなく、その跡地には未だ新しい学生ハイツが建っていた。大家さん宅を訪ねるとご主人さんとおばあさんは既に他界されており、奥さんと松萬荘の昔話をして仏様に線香を上げさせてもらってから辞去した。永年にわたり私の胸のなかでわだかまっていた積年の思いがやっと叶えられたので、これでもう岩倉を訪れることはないだろうと思った。
大学まで8.5kmの下宿
もう何年も京都に出向いてはいないが、大学生活を過ごしたあのアパートはまだあるのだろうか。
思えば、はじめての一人暮らし。不安でもあり、楽しみでもあり。大学までは原付で30分ほどかかる距離の風呂なしの安アパート。でも、一人暮らしをするには十分な広さがありました。京都独特の盆地気候をいかに快適に過ごすかを考えながら、大学に通っていました。
大学、アルバイト、部屋に帰って銭湯へ。この繰り返しでしたが、そんな4年間があったからこそ今の自分が居るんだとつくづく感じます。そして、今の経験があれば、大学生生活がもっと充実していただろうなんてことも思います。これからの人生、そんなことを考えなくても済むような充実したもにしたいですね。