2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

変わらない通学路

 私は、右京区花園町のアパートに4年間下宿し、衣笠キャンパスに通っていました。
 毎日、自転車で15分ほど、大本山妙心寺境内の一般開放されている道路を通っていました。数多くの塔頭の間に張り巡らされた道は、迷路の様で、入学当初は迷ってしまうこともありました。また、歴史的な建築物の中を観光客と一緒に大学生や高校生、近隣住民の方が通って行く様は、日常と非日常の混在であり、不思議な感覚でした。時にはドラマの撮影をやっていたり、外国人に道を聞かれたりしたこともありました。
 この前、観光で京都を訪れました。街の風景は、数年経てば変わってしまうこともありますが、お寺の中は大きく変わらずに残っています。通学していた境内を歩いていると、京都での大学生活を思い出し、とても懐かしい気持ちになりました。また何年か経ったら、この当時と変わらない通学路を見に行きたいと思います。

お寺の通学路

 大学時代の通学にまつわる思い出というと、何よりもまず思い出されるのは、衣笠キャンパスから南へ一キロほど下った妙心寺だ。
 大学入学が決まってすぐ、親とともに上京して下宿先を探し回り、JR花園駅前のアパートに部屋を借りた。家賃や利便性、部屋の広さなどあれこれと散々議論しながら探したものの、最後の決め手は、徒歩数分にある妙心寺南門からの境内の眺めであった。
 九州の田舎から出てきた私には、京都といえば寺社がそこかしこにあるんだろうなぁといった、何とも情けないほどぼんやりとした意識しかなかった。
 「すぐ近くにね、とっても立派なお寺がありますから、一度行ってみてくださいね」と大家さんに勧められ、散歩がてらお寺の白壁を横目に、試しに妙心寺の南門から入ってみた。門を潜り抜け、一歩境内へと足を踏み入れて驚いた。大方丈へと一直線に向かう石道、丁寧に選定された松の並びを目で追いながら視点を上げると、方丈の上に抜けるように広がる青い空。私は眼前のパノラマに、しばしポカーンとしてしまった。
 それまで地元にあるお寺といえば、せいぜい子どもが駆け回るか、年寄のお散歩にちょうどいい広さで、それくらいが当たり前だった。それが、まさかお寺でパノラミックな眺望を実感するとは思ってもみなかった。後で調べてみると、妙心寺の広さは十万坪近くもあった。当時は、はじめて目にする大本山のスケールに、これが「京都」か! と素直に感動したのを覚えている。
 下宿を始めてからの四年間、妙心寺は私の通学路になった。毎日、眠気眼で自転車にまたがって、南門から北門へと通り抜けて大学へ通った。境内の石畳は見た目よりも凹凸があり、自転車でバランスをとるのが意外と難しい。加えて、北門まではなだらかな坂道になっており、うまく走るには体力とコツがいる。
 最初は、お寺を自転車で通り抜けるだけなんて、何だか申し訳ないような気がして、境内は押して通っていた。けれど、朝夕問わず近所のおじさんや、子供を後ろに乗せたお母さんが、颯爽と自転車で走り抜ける姿を見るうちに、そこが地域の一部なのだと感じるようになった。特別に用がなくとも、ただ通り過ぎるだけでもいいのだと。以来、石畳の道を走り慣れるにつれ、学生生活にもだんだんと馴染んでいったように思う。学生だろうがなんだろうが、妙心寺はいつも誰でも迎えてくれる。都合がよすぎるけれど、そんな風に感じていたのだと思う。
 卒業してからは車で門前を走るくらいで、ほとんど境内には足を踏み入れていない。今度行くときはぜひ自転車で、と思っている。ガタガタと車輪が上下に弾むたびに、眠った思い出の一コマが飛び起きてくれる気がする。

旧草津川堤防サイクルロード

 私はBKCの近くに実家があったため、自転車通学でした。旧草津川堤防サイクルロードを通り、国道1号線を経て、大学前の勾配のある道路を一生懸命こいでました。片道で1時間近くでしょうか。

 印象に残っているのは…少なくとも、現在の後輩さんも同様に苦しんでいるであろう勾配のある道路ではないです(あれは苦しかったですが、下りの帰り道では友人と駄弁りながら…という意味で重宝していましたのでプラスマイナスゼロです)。
 どちらかといえば、殺風景だったと言える旧草津川をネタに挙げさせてもらいます。当時は「自転車が通れるからじゅうぶんなのか。」などと思って納得していましたが。現在は、“草津川跡地利用基本構想”等と銘打って恒久的整備がなされているようです。私が卒業した頃からの様です。

 私は現在、北陸で働いているので、帰省してはじめて知った時は懐かしさと共に、その壮大さに驚かされました。草津市役所の職員さんのお仕事ぶりには敬意を払うばかりです(※校友会の方も結構おられることでしょう)。
 同時に、今回は通学路の話ですが、素晴らしい環境に囲まれている後輩さんへの羨ましさも感じました。この構想の今迄の進捗状況や、現在の整備状況を調べてみることをおすすめします。なかなか面白いですよ。

 何はともあれ、北陸の地から皆様のご活躍を祈っております(帰省の際に、草津川跡地の進捗状況を確認することを楽しみにしながら…)。

修学院「下田会」は永遠に

「京都で一番好きな場所はどこですか」と問われたら、私は迷うことなく「修学院」と答えます。私は3年余り、修学院の薬師堂町に下宿したのですが、そこはとてもすばらしい土地でした。春は桜と菜の花が咲き乱れ、雲雀の声が聞こえます。夏は夜になると比叡山からの涼しい風が吹き抜け、すごしやすくなります。秋は真っ赤な紅葉に燃え、金木犀の香が漂います。鷺の森神社を抜け曼殊院の前を通り、雲母坂から音羽川沿いに下り、小さな橋を渡って林丘寺に出ると、そこは修学院離宮の広大な景色が広がります。冬は底冷えがひどいのですが、雪が降るとそこは一面の銀世界。神社仏閣に積もる景観はまた格別です。
下宿には常時6,7人の大学生が住んでおり、立命館3人、同志社2人、京都産業大学2人くらいの割合で、出身地は、東京、千葉、広島、島根、香川、鹿児島、大分など多彩でした。部屋は7部屋あり、出入り口は襖1枚で、プライバシーなどは全くありませんでしたが、その代わり下宿人同士はとても仲良くなり、親密な関係を結ぶことができました。休日には時々みんなで奈良などに行き、神社仏閣巡りをしました。京福電鉄に乗って鞍馬の火祭に行ったこともあります。
自炊厳禁の下宿でしたが、下宿のおばさんに内緒で「すき焼き大会」を開き、お酒を飲んで大声で歌を歌って怒られたこともあります。その宴会の後、夜中に懐中電灯を頼りに雲母坂から比叡山に登り、夜明けの山頂でごろ寝をしたことも、つい昨日の出来事のように思い出されます。その中の数名とは特に親密になり、学生時代からそれぞれの郷里の実家に遊びに行き、その家族とも親しく交流を結ぶことができました。その仲間たちは、卒業後は各地に散らばって行きましたが、「下田会」という会を作り毎年のように同窓会を開き、九州、奄美諸島、馬篭、津和野などを旅行しました。仲間の結婚式には万難を排して集合しましたが、私は高校教師として修学旅行の引率と重なり、H君の結婚式に出席できず、それが今でも負い目となっています。
その下田会も私の結婚式を最後に、30年ほど途絶えてしまいました。それぞれ子育てや仕事が忙しく、皆で1か所に集まる同窓会を開く余裕が無かったわけです。もっともA君は、出張や自分の子どもの家を訪問する機会が多く、大阪でH君と会ったり、東京に来た時には(結構頻繁に)私と会っていましたので、それほど「ご無沙汰」と言う感じではありませんでした。ところが5年前の2012年11月、それぞれが少し暇を持つゆとりが出てきましたので、秋の京都で30年ぶりの下田会を開くことができ、4人で修学院を訪れました。そして昨年11月には5人で京都大原で下田会を開くことができましたが、このときは私(妻は病弱のため)以外は連れ合いも同伴し、皆で修学院を散策しました。「下田会は、このあとも末永く続けようね」と誓いながら京都で皆と別れました。

我が青春の京都暮らし

 国立大学Ⅰ期・Ⅱ期の不合格通知をもらってから、3月末までの下宿探しだった。文学部事務室で紹介された下宿先は、なんと伏見区深草願成町。赤い鳥居で有名な伏見稲荷大社と紅葉の名所東福寺のちょうど中間地点。近くには京都教育大や龍谷大があり、立命大までは結構な距離だった。父が小学校教員の一馬力。18,000円の仕送り(でもこの額は、我が家の家の1箇月の生活費に相当)で、何とか学生生活を全うするため、通学は市電。当時文学部があった広小路学舎までは、稲荷駅から京都駅行きの一つ手前、塩小路高倉で河原町線に乗り換え、約1時間を要した(片道15円)。この乗り換え駅の近くに、新福菜館という麺が見えないくらい豚肉ののった中華そばを出す店があり、夕方帰るときに何回か立ち寄った。数カ月が過ぎ、無駄な通学時間を減らすため、下宿近くの鳥羽街道駅で乗り三条まで行ける京阪電鉄に変更し、三条京阪からは朝は河原町通、帰りは鴨川の歩道を歩き、大幅に短縮できた。
 大学との距離は遠かったが、我が下宿は東山連邦の高台にあり、大変な景勝地で、西山へ沈む夕日の眺めは素晴らしく、同時に郷里岡山への思いに、入学当初は涙することもあった。賄い無しの下宿だったので、食事は基本的に大学生協の食堂を利用した。素うどんが20円、定食やカレーが45円だった。父からの仕送りが届いた翌日には、隣のグリル「クラルテ」で130円のビフカツライスを食べた。京阪電鉄を利用するようになってからは、鳥羽街道駅近くにあった、財津一郎似の主人のいる食堂でオムレツ定食もよく食べた。
 研究者に憧れていた私は、地理学科の当時専任講師だった徳島県出身の日下雅義先生が、「自分はアルバイトをして贅沢な学生生活をするより、その時間を学問に充てた」という貴重な言葉を教訓として、私自身アルバイトはほとんどしなかった。受講制限(年間50単位)や休講で午後が自由の時など、しばしば今出川通・丸太町通・寺町通などの古本屋巡りをした。欲しくても手の届かない学術書など一番高い所に置かれたその本をただ眺めるばかりのことがほとんどだった。また新京極にあった古い名画を上映している館で、高校時代見ることができなかった「アラビアのロレンス」や「サウンド・オブ・ミュージック」など手当たり次第に鑑賞した。
 下宿周辺での思い出も多い。2日に1度行くことにしていた銭湯の帰りに伏見の銘酒月桂冠の一合瓶に舌鼓。伏見稲荷では、鳥居に書かれた俳優や財界人の名前を見たり、登山道の途中の池で錦鯉の餌として買った長い麩を自分でも食べた。今ほど観光地化されていなかった東福寺の山門の下で、文庫本を読んだりもした。この下宿は大変居心地が良く、4年間変わることはなかった。卒業後も下宿のおじさん夫婦とは年賀状のやり取りを続け、自著を献呈したり、瀬戸大橋開通の年には橋を間近に見ることのできる瀬戸内児島ホテルへ招待もした。

二軒長屋の先生

 私は昭和9年(1934年)サハリン、当時は樺太の国境の町敷香生まれで、敗戦の昭和20年国民学校5年生の夏、ソ連軍の占領前に引揚げることができました。最初は父方の伯父を頼って北海道日高の静内に仮住まいでしたが、父がいつ戻れるか不明なので、母の実家のある秋田の小さな町の移りました。暮れに父が樺太からの脱出ができ、6年生の秋に再び北海道の静内で家族揃っての生活が始まりました。新制中学を経て、札幌工業(定時制)を出て1年後に立命館理工学部入学ですので同級生より年寄ですので仲間内で兄貴と呼ばれていました。
 
 友人からの紹介で下宿をお願いに一乗寺の家を訪れたのですが、すぐには承諾されず、一週間ほど経てからお許しとのことで、挨拶に行きましたが、小柄のおばさんが開口一番「まっはしはん、内の社中はんにおいたしたら、あきまへんようー」と言われたのです。この京ことばを理解できなかったようでした。
 茶の湯『南坊流』華道『遠州流』を教えていて皆が先生と呼んでいました。出戻りの娘さんとの二人暮らしでしたので男手が必要だったようですが、金光教の信者でもあり何事もお伺いを経てから決めていて、私の下宿もこのお伺いにかなったからです。家は住宅街に多くあった平屋の二軒長屋でした。さて内の社中さんですが、小学生から婦人会のおばさん達で先生も多忙でした。年頃の娘さんは仕事を終え夕食後の稽古ですので、帰りが深夜になります。そこで私が彼女等を家まで送るのです。部屋代は1300円光熱費込みで春・夏休みで帰省の折は1000円でした。部屋は下宿の先輩(同志社・文学部)が自分用に増築させた変則な四畳に半間の押入れ付でした。この家には昭和35年3月まで下宿しましたが部屋代は最後まで同じでした。内の社中はんに、おいたしませんようーを痩せがまんで守りましたので。
 下宿に別れる日、先生が扇子を展げその上に餞別を載せて差し出されました。嗚呼これぞ京都かと感動しました。
 
 その後も先生との縁は切れず、お茶の社中の婦人会のおばさんの娘と結婚しましたが、婚礼には先生と娘さんにもおいでいただきました。私は三重県庁の土木技師を定年まで勤めましたが、これも縁は異なもの、下宿の先輩がなんと伊勢古市の江戸時代から続く老舗旅館「麻吉」のご主人とは。京都の先生が伊勢においでの折は私も呼んでいただき「麻吉」で旧交を温めたことも懐かしい思い出です。

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