2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

末川博先生の思い出

私は、昭和32~33年に大学新聞の主幹に就きました。この間のことで末川先生の思い出を書くことにします。立命館大学新聞は、原則として、旬刊で大判4ページ、発行部数は、3.000 部、一部5円でした。正直なところ部員数約30名、組織は、編集部、業務部(計理、広告担当)の2組織で発行日を守るのが大変でした。
ある日、末川先生の発案で、田村陽子総長秘書から、自叙伝を書きたいと言われるが、学園新聞で連載できますかと、問い合わせがあった。もちろん「おねがいします」とのことであったが、 「彼の歩んだ道」の題名は、後になってから決まった。
当初、編集部のミスで誤字が出て、二度ばかり編集長が総長室に呼びつけられた。学問に対する学者の厳しさを肌で感じた。連載の中ごろ、岩波書店から新書として出版したいとの話があった。何週もベストセラーとなり、若者を中心に広く読まれた。
京都大学の桑原武夫先生方が発起人となって、出版祝賀会が催された。新聞社にも2名の招待があった。会場では、並みいる高名会学者たちが談笑されており、入場を跨践していると、先生がステージから降りてこられ、「よく来てくれたな」と迎え入れてくださった。しかし、場違いとも思われ、早々にご無礼した。
(ここで少し岩波書店と末川先生のことに触れたい。 「六法全書」を編纂されたのは、日本の草分けでもあり、毎年改訂され、多くの学生に利用されていた。学園新聞は、先生のお陰で六法全書を始め、法学書の広告を月変わりごとに頂いた。一面の紙面三段通しであった。当時一本が 3.000 円であったから、6本分であった。)
学園新聞では、例年、卒業生へのお言葉を総長から頂くとになっていた。主幹として私と業務部長でお宅に伺うことにした。非常識極まりなかったが、寒い夜7時ころ電話でアポイントを取り伺った。快く書斎に迎えてくださり、早速短冊に「未来を信じ、未来に生きる、そこに青年学徒の使命がある」と一人一人の先輩に筆で認められた。奥さんも同席された。
昭和33年、全国校友大会が、二条城で開かれた。 私は、新卒で愛知県の中学校教師になっていた。午前であったが、あいにく小雨であった。早めに出席すると誰もいない中に、先生がレインコート姿で空を眺めておられた。ごあいさつをし、談笑させて頂いた。「遠いところからごくろうさん、田舎で教師、やりがいがあるのではないか、これからは、地方でみんな活躍してもらいたい。立命館も、もっと充実して早稲田、慶応のように一流校にならないといけない。まだ二流校だが、時聞がかかるわな。」と言われた。そのお言葉で、都落ちなどと自噺せずに、愛知でがんばろうと意を決した。

”君なら相当なとこまでやれる”

鳥取大学を退官して18年になります、私が大学4年のとき、就職の失敗と母のすすめもあって大学院を目指しました。専門科目には多少自信がありましたので、苦手だった英語を3ヶ月あまり勉強いたしました。少しはカがついたことと思います。試験終了後、門脇博明教授から「山本君、英語が非常によくできた。何か同じものをみたのかね」とたずねられました。 出題と同じ本を目にする確率はオールモストゼロであります。「いいえ」とお答えいたしました。大学院入試の前、 周辺の人に「私は入試に1位でパスしてみせる、1位になれば奨学資金がいただける」と約束いたしました。奨学資金を得た私は、母からの送金を少し減らしました。大学院を終えたあと、京都大学原子核工学科より助手の公募がありました。門脇教授の推薦を受けて京大に採用されました。京大での原子力は難解であり雑用が多かったので苦しい毎日でした。京大で7年間を過ごしたあと、郷里の鳥取大学に工学部が設置されました。工業化学科もできたので、私は京大から鳥大へ移ることになりました。 学生時代に学んだ有機化学にようやく戻ることができたのです。当時の工学部は世帯が小さかったので、教官と事務官は笑顔で仲良く接することができました。13のリクレ ーシヨンの班がつくられて、私は茶華斑と野球ソフトボール斑の班長に任ぜられました。大学院学生時代に町で学んだ茶道がいくらか役にたったようでした。週に1回の稽古を行い、数回の京都と金沢へ1回の研修旅行を実施いたしました。全国で万を超える教授のなかで、客人に抹茶を供した教授は私だけだったと思います。研究室対抗で、のベ参加人数110名の中から、私は首位打者と強肩王に選ばれたことがあります。私が在職中に、工学博士を取得いたしました。私が大学院に在学中、「山本君、君ならば相当なとこまでやれる」と門脇教授から激励されました。このとき私に、小さな希望が芽生えました。工学部で実験をすすめ、結果をまとめ学会に投稿する時間は、私にとって貴重なひとときでした。 立命館大学で取得した工学博士を含め、4つの学位(工学2、理学1、農学1)が授与されています。 苦しくって懐かしい学位の取得でした。
私が退官すると同時に2つのリクレーションの班は消滅いたしました。62歳のとき鳥城クラブに入団し、年輪ピックに3回出場いたしました。 77歳になるとの私の黄金の手首は二塁へ放物線を描き、 セカンド累上でランナーを刺せなくなりました。 この時、私の黄金の手首は鉛に変わったのだなと思いました。

授業と先生の思い出

地理学専攻だったので、正課や地理学研究会で企画される、観光では行かないようなエクスカーションに何度も参加した。奈良盆地の環濠集落、奥丹後半島の間人集落、浜名湖のうなぎ養殖場、栃木県烏山の関東ローム層、信州伊奈谷の扇状地地形、淡路島の漁村、岡山・広島北部の製鉄(たたら)遺跡等々、のちの中学社会科教諭や家庭での話題作りに多いに役立った。山口平四郎先生からは「人文地理」「世界地誌」など4講座を受けたが、ある授業で、先生がスイスの交通の研究旅行中、ホテルでフォークとナイフが上手に使えなくて周囲の客から笑われた時、自室から持参した箸を使って素早い速度でグリーンピースを食べ、驚嘆の眼で見られたエピソードは今でも記憶に新しい。亀井節夫先生の「地理特講」では、東京地下鉄掘削現場から発掘された頭蓋骨を風呂敷包みで持参されたたり、さっきまで指揮を執られていた帯広のナウマン象発掘現場での写真を見せていただき、研究の最前線を感じさせていただいた。また考古学関係では、立命館大学の卒業生など、大変偉い先生方が来講されていた。市内平安高校からは田辺昭三先生、先輩ではないが近くの鴨沂高校から藤沢長治先生など、錚々たる先生方がご来講いただいていた。「日本史概説」の林屋辰三郎先生からは、弥生時代から平安時代ぐらいまで教わったが大変美声のやさしい声で、地理学科助手の先生が用事でお宅へ電話した時、出られた声を聞きお嬢さんと間違えたそうである。北山茂夫先生からは、万葉時代を中心とした「日本史特講」を受けたが、大変迫力のある講義で、板書の字はけっして上手とは言えなかったが、チョークの破片が学生の席まで飛んできたことを記憶している。関学から来ていただいていた永島福太郎先生は、「古文書学」の大家で、卒業後古文書の解読で困ったことがあればいつでも聞きに来なさいと言っていただいた。日下雅義先生のたしか「自然地理学」の講義でのことだが、不動産を取得するときの注意点として、「まずは梅雨の頃の現地を見なさい。」、「第2は高速道路や新幹線の山側は地下水脈が切断されているから水没する恐れが高いのでやめなさい。」との教訓をいただいた。その後真新しい団地が水没しているのを見るにつけ、納得している次第である。
最後に、末川総長の思い出で締めくくりたい。法学専攻ではないので講義を聞くことはなかったが、学内で催されている講演会にはできるだけ参加した。あの白っぽい上品なお顔が、熱を帯びると紅潮し、いつも感動してお聞きした。一番憶えているのは、「人生3分論」である。「当時の平均寿命から考え人生を75年と仮定し、最初の25年は親のすねかじりで勉学に励む。次の25年は社会のため、家庭のために頑張る。最後の25年は自分の好きなことをして過ごす。」というものである。私もこれを実践し、現在70歳を超しているので、あと5年好きなことをして過ごしたいと思っている。

立命大法学部井戸田会の思い出

井戸田侃先生は昭和30年3月、司法修習生を終了されるとその4月より佐伯千仭先生の法律事務所で弁護士活動を開始された。同時に4月より立命館大学法学部に奉職された。
私も昭和30年3月、紫野高校を卒業するとその4月、立命館大学一部法学部に入学した。
昭和8年の京大事件以来、私が入学した当時においても立命大法学部は東京大法学部と並んで法学界の二代権威と称されていた。
そのような立命大法学部のスタッフの優秀な先生方に憧れて入学した。
二回生になると佐伯先生の刑法総論の授業に出席させて貰った。京都西陣の六軒町仁和寺街道下るに公衆便所が在って、その前で一人の少年がちんぴら一人にナイフでグサッと刺され、便所で用を足して出てきたところを刺したちんぴらとは全く関係のない三人組の不良少年に袋叩きにされ死亡した。死亡の原因は刺されたことによるものなのか、袋叩きによる出血多量によるものか、この五番町事件、今京都地裁で争われている。佐伯先生の素晴らしい講義だった。法は決して国民に怯懦を命ずるものではない。この先生のお言葉には82歳になる今も肝銘している。
井戸田先生の独書購読の授業には三回生、四回生の二年間出席させていただき勉強した。偉大な刑法学者リストの根本的思想を究明するため(F.V.Liszt, Der Zweckgedanke im Strafrecht)を学生が輪読して、必要な時には先生がその内容を説明してくださる方法で進められた。受講者には相当高い独語の力が必要であった。
同じく三回生、四回生の二年間、井戸田先生のゼミ刑法演習にも入れてもらった。テキストは三回生では日本刑法学会編刑法演習総論が、四回生では同じく刑法演習各論が使われた。テキストの各問題について先生のご説明のあと個々の具体的事例に対する刑法適用を考え刑法理論に対する理解を深めるため順次例題を検討する方法で進められた。
三回生では宮内裕先生の刑法各論、刑事政策、平場安治先生の刑事訴訟法にも出席した。
三回生の昭和33年3月、井戸田先生もお迎えして一年間共にゼミで勉強した四回生の追い出しコンパを寺町のスター食堂で開催した。
立命大法学部井戸田会結成の折は伊吹邦彦氏が初代会長で私は副会長を務めた。二代目は市田幸雄君、三代目は一岡隆夫弁護士が会長を務めてくださった。立命大校友大会、法学部同窓会、法学部井戸田会には井戸田先生は殆ど毎回ご出席賜り皆勤に近い状況であった。井戸田会では私はいつも角帽、白手、真っ赤な扇二本を両手に校歌、応援歌、寮歌のリーダーを演じたものである。
平成11年10月、私が法務大臣表彰受賞の折には井戸田先生の温かいお祝いの言葉を頂戴し、平成22年11月瑞宝双光章受章に際しては祝賀会に井戸田先生は来賓として京都府知事山田啓二様、京都市長門川大作様等と共にご臨席賜った。平成29年8月26日開催の井戸田会偲ぶ会には立命館副理事長・名誉教授・弁護士の久岡康成先生、井戸田先生のご長男井戸田耕二様、ご長女豊福由香様もご出席くださった。

紫陽花と文化人類学

文化人類学を担当されていた、中村忠男先生の授業を思い出す。人類と文化について、詳しくわかり易い授業であった。人類の発展・進化に文化の発展がどう関係していたか、を熱心に聴いていた。
実は今年、久し振りに衣笠キャンパスへ行く用事があり久方振りに構内を歩いた。清心館が私の学び舎だった懐かしさで様々な想い出が脳内再生された。
先月の立命館大学フェイスブックにUPされていたのだが、清心館の横で咲く「あじさい」が何故かとても印象に残っていて、そのサイトを見た5日後に衣笠キャンパスで実際に「あじさい」を見ると、二十年前に自分が大学一回生だった初々しさがリプレイされたのだ。
文化人類学で学んだ内容で絵画と人類についての関わりがあったのだが、僕がキャンパスに想い出として残っている「あじさい」の色彩も、強引に文化人類学の学びと紐付けすれば「心のキャンパスに残っている絵画」という事になるだろうか。梅雨の中、雨の水滴をたたえていた紫陽花は二十年が経った今も僕の心にフルカラーで想い出として残っていた。

山小屋と末川総長の揮毫

クラブ活動の一環で現役時代に山小屋を建設しました。
1962年、私が3回生の時に完成し、1995年と2002年の2回にわたって改修工事を行い、現在も現役、OBが活用しています。
数年前、現役が数人に減少して、現役クラブ消滅の危機がありましたが、現在は30~40人ほどの現役が活躍しています。
10年程前から現役による維持管理が難しくなり、現在は立命館大学ワンダーフォ―ゲル同好会OB会が維持管理に当たっています。

1962年11月、山小屋が完成する目途がたたった時に、末川博総長の揮毫を頂けないかとの要望が持ち上がり、色々手を尽くした結果いただけるようになりました。
その後も末川総長からは色々気にかけていただき、私達にとっては有難い完成祝いの品になりました。

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