2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

末川総長に教えられた平和と自由と民主主義

私は昭和33年(1958年)に家庭の事情で九州の宮崎県都城市から京都の立命館高校に入学し、その入学式の時に初めて末川総長のお話を聞きました。その後3年間入学式と卒業式のたびに総長のお話を聞いてきましたが、必ず話題にされたのは、「平和の大切さ」でした。これがきっかけで昭和18年生まれの私は母に戦争の話を聞くようになり、空襲警報が鳴る度に2才の私を抱いて防空壕に逃げ込んだこと等を聞かされ、サイレンの音がすると防空壕に連れ込まれていた記憶がかすかに蘇ってきました。また都城には旧陸軍の連隊場があったせいか、昭和25年に小学校に入学した頃にはまだ通学道に戦車の残骸が放置され、学校帰りの道草の遊び場になってたことも想い出され、もし立命館高校で末川総長の話を聞く機会がなければ、今まで親に戦争の話を聞き、通学路の戦車の残骸を想い出すこともなかっただろうと思います。
そして昭和36年に立命館大学法学部に入学し、専門科目の憲法講義より、1回生の一般教養科目の末川総長の「法学」の講義で、京大滝川事件に遭遇された経験や学徒出陣等を題材に、人類の普遍的価値とも言える、言論と学問等等の自由や平和と民主主義の大切さを教えられ学んだように思います。
また毎年12月8日に広小路キャンパスの研心館前の「わだつみの像」の前で行われる、「不戦の集い」での末川総長のお話も欠かさず聞いたことを想い出します。末川総長の講義や講演スタイルは三つ揃えの背広にネクタイをしめ、チョッキのポケットに左手先を入れ、明治生まれの英国紳士然とした姿で、いつも穏やかに、しかし反戦の話はいつも厳しく話されていました。そして「不戦の集い」では二度と戦争をしてはならない、させてはならないとの思いで、必ず京大滝川事件や学徒出陣の話をされていたように思います。そのような中、昭和38年11月の衆議院総選挙で自民党が圧勝した年の12月8日の不戦の集いでは、この勢いで将来自民党が衆参で3分の2の議席を占めたら、必ず憲法第9条を改正し、戦争を可能とし、徴兵制が復活されるという話をされたことを鮮明に覚えています。それが今、自民党安倍政権下で、「集団的自衛権」が解釈改憲され、現実になりつつあることを思うと、約55年前の末川総長の予言が的中したようで、改めて末川総長の洞察力と 慧眼に驚かざるを得ません。今、自分も当時の末川総長と同じ年頃になり、日本政治の現状を見た時、不戦の集いで「平和と 自由と反戦」を訴えられた末川総長の意思が立命館に絶えることのないように願ってやみません。

卒業式なき卒業証書授与

 理想は高く姿勢は低く、いつも心に太陽をもって、
 ゆっくりとがっちりと、理論を貫いて実践に生き、
 実践を通して理論を究め、前へ前へと進もう。
 未来を信じ未来に生きる、君の洋々たる前途を祝して    
                      末川博

私は学園紛争さなかの1969年に卒業した。あれから半世紀の歳月が流れたが、今も末川博総長から卒業証書とともに授与された色紙は黄ばみがかっているものの、都下の拙宅の玄関先に飾っており、未熟な私を激励してくれている。そればかりか、卒業後、新聞記者になったあと、30年近く研究生活を送っているが、毎年、卒業式を迎えた教え子に「未来を信じ、未来に生きる」というこのお言葉を贈らせていただいている。

当時、アメリカのベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)への軍事介入による北ベトナム(ベトナム民主共和国:現ベトナム社会主義共和国)への攻撃(北爆)、および第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)直後、アメリカをはじめとする連合国側との間で締結されたサンフランシスコ講和条約と同時に締結、発効した日米安全保障条約にもとづき、沖縄県に駐留することになった在日米軍基地からアメリカの爆撃機が北爆のため、出撃したこともあって、その返還を求める学生運動(学園紛争)に対し、政府は全国の大学の教育や研究、管理運営に干渉したため、学問の自由や大学の自治を守るべく、全日本学生自治会総連合(全学連)による抗議活動がわが母校でも展開された。また、母校の元広小路キャンパスの存心館に立てこもり、バリケードをつくって封鎖、政府に抗議する過激派の学生たちを構内から排除すべく、大学当局はやむなく警察の学内への導入を要請した。このような学園紛争は全国の大学で繰り広げられたため、政府はこれに乗じ、大学の管理運営や授業料の値上げに乗り出すことになった。

そこで、入学した当初から卒業するまでの4年間、全学連、または過激派のいずれかのグル―プに関わった学友もおり、一時、中立を保った私は彼らから「日和見主義者」などと批判された。とはいうものの、その後、過激派の考え方にはついていけず、全学連や大学側の立場を貫き、政府の大学への干渉を批判したことは今までも正しかったと自負している。

おかげで、わが母校も卒業式は学園史上初の取り止めとなり、卒業式なき卒業証書の授与、それも自宅への郵送だったと記憶している。

あれから半世紀の現代、平均寿命が延びて「人生100年時代」といわれるようになったが、70代の大台に乗った今、残りの人生は少なくなったが、末川博総長のこの「未来を信じ未来に生きる」なるお言葉は私にとって生涯にわたる座右の銘となっている。

自動車革命

55年前、単行本を発行されていた星野芳郎教授の授業を受講した。文句なしに講義の話術が素晴らしい。面白くて落語ではないが、わたくしだけでなく学生全体をグイグイと惹きつけた。記憶しているのは、たしか書名が『自動車改革(または革命)』というタイトルである。
昨今、話題になっているが自動運転車と称するものは、ハンドルを握る運転手がいなくてもよいという。驚きだ。受講した学生としては“大風呂敷”と思っていた。2018年の今になってみて、世界中の自動車業界が人工知能(AI)を駆使した自動運転車の開発に凌ぎを削っている現況である。「事前に作製した3次元地図を頼りにカメラやセンサーなどで走行地点を把握し、ハンドルやブレーキなどを自動制御する」と報道(日経)されている。
経営学部の星野教授のadvancedで質の高い授業に対して驚嘆せざるを得ない。立命館大学の教員たちは先見性を持ち合わせており優秀であった。国立大学の教官と肩を並べているのだ。
立命館大学は歴史ある経済学部経営学科から時機をえて、経営学部を創設したのが1962年(昭和37)だった。スタート時、広小路・河原町通りに面していた「恒心館」が学び舎であった。この原稿を書いていても懐かしい。
経営学部の他の講義で聞いたのは、将来、日本中にコンビニエントストア(コンビニ)が出現して広く普及する。それが当たり前になるという内容もあった。そんな授業を夢うつつで聞いていた(失礼!)。

教職課程の思い出

立命館大学校友会設立100周年記念にあたり、私の心に残る講義について語らせていただきます。
私は教職課程を取っておりましたが、講義では様々な個性的なものがありました。
中でも特に印象に残っているものが以下の講義です。
講義内容自体は無難なものだったらしく、内容の詳細な記憶は残っておりません。
特記すべきは、その評価方法です。
完全な自由形式のレポートを課していたのです。
先輩たちのレポートは、牛乳パックやビニール傘に書かれていたりしたそうです。
先生は、「生物だけはやめて下さい」としかおっしゃりませんでしたので。
私は、最初はそこまで思い切れず、レターセットに書きました。
評価はBでした。
次の学期では、少しやり方が分かってきて、折り紙に書いて折りました。
評価はAでした。
友人は、半畳の畳に書いていました。
女性でしたが、畳をかついで西大路を自転車に乗り、二条城の前を通って衣笠まで上って来たのだそうです。
二条城の観光客は、さぞ驚いたことでしょう。
もちろん評価はAでした。
先生は、教師としての独創性と、豊かな心を育てたかったのだと思います。
教師になって、もしも破天荒な生徒を受け持つことがあっても、「畳をかついで来た女学生が高評価な大学があること」を知っていたら、余裕ができて、その生徒に対する評価は変わるでしょう。
私は教師にはなりませんでしたが、先生が笑いと共に教えて下さったことは、心の支えになってます。
どうもありがとうございました。

三枝暁子先生!と仲間たち!

三枝暁子先生と仲間に支えていただき、学業と体育会アイスホッケーでの活動の文武両道、充実した立命館大学の生活を送れました!

異を受け入れる

一回生の時、初めての授業である研究入門の授業で担当教授より「人は産まれた瞬間から死にむかっていく」と言われた事がとても驚いた事を覚えています。大学というのは多様な考え方で、正解のない自由な学びができると期待が膨らんだのも覚えています。

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