2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

立同戦前夜

円山公園音楽堂(2528名収容)が会場であった。椅子席は公園ベンチにあるような、お尻の痛くなる木造製である。
50年ほど前のこと、舞台の上では立命館大学と同志社大学の応援団が明日の野球対戦をひかえて火花を散らしているという雰囲気である。まさに応援合戦の様相である。
同志社大学の司会は立て板に水の如く、プロ並みの饒舌で惚れ惚れとする。筆者は高校生の時、応援団活動をしていたので、なおさら肩に力が入る。
両大学の学生は相手を誹謗するような野次を飛ばさない。つぎつぎと両大学応援団によって、交互に母校のエール、学歌、応援歌、寮歌、演舞などが続く。若いエネルギーが弾ける。もちろん舞台の学生服姿の応援団員と観客席の在校生が一体となり、いやがうえにも盛り上がる。天井がない夜空に大歓声が大波の如く、うねりとなり響き渡る。
応援エールの仕方について、最近では女子部員がおり、男子学生より明らかに勇ましい。昨今の状況は校友会全国大会で応援団出演があるので、お分かりと思うが、女子部員がエールを指揮する。別に吹奏楽がありカラフルな衣装を身に付けたバトントワラーがあり、誠に賑やかである。

1986年の砂かけばばあ

 最近、テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が新しく製作され、幾度目かの放送が始まるというニュースを目にした。ちょうど、私が入学した当時も新バージョンの鬼太郎が放送中で再ブームとなっており、(原作の妖気がかなりマイルドになっていたと記憶している。)そこで、鬼太郎をテーマにサークル有志で、学園祭の仮装行列に参加することが決定した。主役の「鬼太郎」はじめ、「ねこ娘」、「ねずみ男」ら、おなじみのキャラクターが、手作りの衣装とメイクで洛中に参上した。そのなかで「砂かけばばあ」を担当することになった私は、生地を購入した店のおばあさんに着物の裁ち方や縫い方を教わり、たぶん生涯最初で最後の和裁に挑戦した。下宿生だった私にとって、田舎の自分の祖母と話をしているようで楽しく、店の奥のお座敷で(いわゆる京町屋、奥行きが深い)お茶やお菓子までご馳走になった。学園祭の後、仮装の写真を手にしてお礼に訪れた時も笑顔で歓待してくださった。卒業を控え、京都を去る前にもう一度そのおばあさんを尋ねたのだが、ご家族の方からすでに他界なさったと聞いた。あのはんなりとした京言葉をもう一度お聞きしたかった。
 さて、仮装行列である。参加された方はご存じであろうが、学園祭のオープニングを飾る催しである。そのルートは、以学館前をスタートし、西大路に出て、白梅町から今出川通りを東進し、さらに河原町通りを下って、徒歩でゴールの祇園円山公園へ至るというものだ。仮装をした多くの集団に、応援団や学園祭実行委員の学生たちも加わり、今思えば、かなり大がかりなものだっただろう。途中、学問の神様である北野天満宮の前を通り、永遠の好敵手(?)同志社大学へはエールを送り、広小路キャンパス跡(現・府立医大)を通り、京都一の繁華街、四条河原町や祇園へたどり着くころには、すでに日は西に傾き、仮装集団のテンションはマックス、疲労と羞恥心はどこへやら。秋の観光シーズン真っ只中、笑顔で修学旅行生のカメラに収まる姿に、あちこちから悲鳴も・・・?折しもその日はハロウィーン、まだ今ほど多くの人には知られていなかったけれど、妖怪に扮して都大路を跋扈した私たちって、先見の明があったりして。
 さらに、一週間後、存心館前の今は無き中央グランドは数百の模擬店で埋め尽くされ、私たちの仮装は何かの賞をいただき、そうして1986年の祭の夜は賑やかに更けていったのであった。

卒業後の進路は「焼き芋屋」

1969年4月、私は立命館大学法学部に入学しましたが、1回生の時同じクラスのH君、C君、N君、そして女性(3人しかいない)のIさんUさんと仲良くなりました。その年の11月、初めての学園祭を経験したのですが、私と男子3人は「学園祭で焼き芋屋をやろう」という話になり、10月下旬に4人で五条にある焼き芋屋の元締めの「美濃屋」という店に屋台を借りる交渉に行きました。そこでの条件は、生芋1箱(約30個入り)1400円で買えば、屋台は無料で貸してくれるという。焼き芋1個100円で売れば1600円の利益が出るというので、即座に屋台の予約を入れました。
そのあと我々は焼き芋の前売り券を印刷し、立命館大学だけでなく、焼き芋を買ってくれそうな女子大の正門前に行き前売り券を売ったり、知り合いの女子大生に頼んで前売り券を売ってもらったりしました。女子大生へのお礼は焼き芋の前売り券でした。
焼き芋屋台の模擬店は前夜祭で行われたのですが、昼ごろ4人で「美濃屋」に屋台を借りに行きました。屋台は「石焼き芋」ではなく「釜焼き芋」で、鉄板でできた円筒の釜が上下に2つずつあり、初めに下の釜で焼いた後、上の釜に移動するとのことで、それぞれ15分ずつ焼くことを教わりました。五条から広小路学舎まで小一時間かけて屋台を運んだのですが、途中女子高生たちと遭遇したら、女子高生たちはクスクス笑っていました。広小路学舎の正門近くになると先頭で引いていたH君が柄にもなく羞恥心を覚えたのか「ちょっと待ってくれ、誰か先頭を代わってくれ」と足を止めましたが、「何をいまさら」と言って我々3人は後ろから屋台を思い切り押して、キャンパス内に突入しました。
模擬店の開始時刻は夕方からでしたので、その間に薪を集めたり、焼き芋屋の看板を作ったり、焼き芋の試作品を焼いたりしたのですが、終始IさんとUさんが手伝ってくれました。
いよいよキャンパス一斉に模擬店が開店したのですが、焼き芋を焼くのに30分ほどかかるので、前売り券(80円)や当日券(100円)の客が長蛇の列となり、一時はパニック状態になりました。客は女子大生が多かったのですが、男子学生もおり、大学の先生や近所のおばさんや子どもたちも買いに来てくれました。4人の中では、私はクラス委員長で(自分で言うのはおこがましいのですが)生真面目タイプなので、IさんとUさんは「まさか望月君がこんなことをやるとは思わなかった。しかも一番冷静でてきぱきと仕事をしている」と感心していました。焼き芋を買いに来てくれたクラスメイトや寮の先輩などが「望月の卒業後の進路は決まったな」、「いつ退学しても大丈夫だな」と声をかけてきました。この日の利益は1万円を超え、そのあと6人で打ち上げをして楽しい学園祭を満喫することができました。

じゃがバタ ともちゃん

大学入学から初めての学園祭の思い出です。

基礎演習クラスのみんなで模擬店を出店しました。
法学部法学科司法専攻法律学特修課程1クラス。
1学年30クラス以上ある法学部の1クラスだったことに何となく「1番」みたいで嬉しかったのを思い出します。私は京都出身でしたが、クラスのみんなはほとんどが他府県からで、今思えばそんな当たり前のことも新鮮でした。また同じ1回生なのに自分よりずっとお兄さんお姉さんにみえるクラスメイトに頼もしく感じていました。
当時、私は立命館大学に入学できたことへの喜びにまだまだ感動していて、目標とか将来とか計画が全くなかったと思います。危機感もなくただただ毎日が楽しくてしょうがなかった。そんな大学時代でした。まさか卒業前には就職氷河期になるとも知らず…(新聞を見ていれば入学当初からでもわかったはずなのでしょうが)
前置きが長くなりましたが、学園祭で出店した模擬店の店名は「ともちゃん」。じゃがバターとも何の関係もない私の名前。どんな経緯でこうなったのか記憶も曖昧で思い出せないのが残念ですが、今回の100周年思い出投稿企画でふとアルバムを見返していた時に見つけました。
卒業から13年経って、なかなか連絡も会うこともなくなりましたが、私は今も京都にいます。弁護士になったり、大手企業に就職したり、みんな立派になっているけれど、大学が懐かしくなった時、1クラのみんなに会いたくなったときは京都に集まってみんなで存心館を眺めに行きましょう。京都で待っています!立命館大学校友会、100周年おめでとうございます!!

第1回クイズ立命オープン(1984年)

立命館大学が、かつて「クイズの名門」と呼ばれていたことをご存じだろうか?
立命館大学クイズソサエティー(RUQS)が、伝説のクイズ番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」で1987~89年に3連覇して以来、全国からクイズ好きが立命館大に集まり、1990年代には大学日本一ともいわれる実力を誇っていたからだ。
だが、そのRUQSも最初から順風満帆だったわけではない。1982年12月に法学部1回生6人で結成したものの、なかなか実績をあげられず、1984年9月にはメンバーが3回生8人だけとなってしまった。そこで全員で話し合った結果が、「学園祭で大々的にクイズ大会を開催し、それを花道にRUQSを解散しよう」というものだった。
私はさっそく学而館の地下にあった学園祭事務局に赴き、クイズ大会開催の希望を伝えた。すると、企画の締切は翌日だという。あわてて企画書を手書きでまとめ、翌日改めて提出しに行くと、今度は一応預かっておきますとの返事。たぶん、学園祭の企画はすでにあらかたまとまっていて、事務局はいまさらクイズ大会なんかに興味がなかったのだろう。この段階では、クイズ大会が日の目をみる可能性はほとんどなかった。
ところがその一週間ほど後、学園祭事務局から連絡があり、急にクイズ大会を開催することになる。どうも予定していた企画が飛んでしまい、唯一の代案として浮上したのがほかならぬクイズ大会だったらしい。そのおかげで、クイズ大会は学園祭のメインステージだった以学館前ステージで、1984年11月4日の午後半日をまるまる使って行われることになった。全体を2部制とし、第1部を大学対抗クイズ、第2部を一般参加のクイズ大会とし、名称も「クイズ立命オープン」と決まった。
大学対抗クイズは、RUQSと京都大学クイズ研究会(ZZZ)、京都産業大学クイズ研究会がそれぞれ4人の代表と早押しクイズ100問を用意し、3大学の三つ巴戦により勝敗を決した。わがRUQSも善戦したが結果は1勝1敗となり、京大ZZZの後塵を拝した。一方の一般参加クイズにも、数百人の来場者がその場で参加し、○×クイズからさまざまなクイズを経て決勝の早押しクイズまで、大盛況の内に幕を閉じた。元々代案にすぎなかった「クイズ立命オープン」が大成功を納め、翌年からは学園祭の名物イベントのひとつとして、長きに渡り開催されることになるのである。
元々解散記念だった「クイズ立命オープン」で自信を深めたわれわれRUQSは、メンバーを募集してリスタートを切り、クイズ立命オープンとその前後のさまざまな出会いも相まって、翌年から急成長を遂げることになる。「もしあのとき、クイズ立命オープンがなかったらどうなっていたのか?」と、今でもときどき思い出しては、懐かしんでいる。

仮装行列

当時の学園祭では衣笠キャンパスから広小路キャンパスまで仮装行列がありました。
プロゼミ、ゼミ、部、サークル単位でそれぞれ工夫して仮装し、沿道を練り歩くのです。その模様を学園祭実行委員が評価するというものです。
1回生の時、私たちのプロゼミは「ムシムシ大行進」というタイトルで参加しました。企画、製作のほとんどを私一人が手がけ、数名のプロゼミメイトに手伝って貰いながら、カブトムシ、カマキリ、コオロギ、テントウムシ、蝶、のかぶりものを作りました。
学園祭実行委員会本部より竹、段ボール、新聞紙などを頂き、それを材料に毎日、夕刻に以学館の裏に集まり1ヶ月近くかけて製作しました。設計図もなく、頭の中に描いたイメージで作っていくので、説明する間もなく、一人で作業を続けていくしかありませんでした。プロデュース力があれば、みんなの力をもっと上手く借りることが出来たのですが、その点は少し残念です。また、一緒に作ってくれた皆さんには申し訳ないことをしたと思います。
どうにか前日までには完成し、いよいよ仮装行列本場。
誰がどの役を引き受けるか担当を決めることになりましたが、一番人気はやはりカブトムシで数名が手を挙げ最後はジャンケンで決めたのですが、余りに頑丈に作りすぎたため重量が他に比べて圧倒的に大きく、行列中、かなりしんどそうでした。
私は、行列の中には参加せず、先頭から指示する役を担いました。
当時ブームになっていたタケノコ族のなりをしたグループがいくつかあり、その他、キャラクターの格好をしたグループもありましたが、「人間ホイホイ」と書いた棺桶状の大きな箱を担ぐ虫たちの行進は目を引き、沿道の人たちが喜んで見てくれていました。
学園祭最終日の夜祭で、仮装行列のコンテストの結果が発表されました。私たちは確かアイデア賞だったと思いますが、天野総長から賞状を手渡して頂きました。あれが今までで一番嬉しかった出来事です。
この先、何か賞を頂くようなことがあったとしても、あれ以上の喜びはないような気がします。

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