2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

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【インタビュー】戦時下の学生生活

  • post 2018.03.06
  • 100周年記念誌制作日誌

校友会設立100周年記念事業特別委員会では記念誌制作のため、戦時中に学生生活を送られた校友へのインタビューを行なっています。今回、その成果の一部をご紹介します。

眞下保太郎さん(‘47専理)

終戦直後の授業再開広告 『大阪朝日新聞』

昭和19年4月、立命館専門学校理学科2部に入学。千本今出川の自宅から広小路学舎へは、市電に乗って通った。中川小十郎総長の姿は、入学式でお見かけした。式辞を述べる、威風堂々とした声色と風貌を覚えている。その半年後に中川総長が急逝。石原廣一郎氏が最高責任者として後を継いだ。

講義は物理が中心であったが、戦時色が強く、学内は殺伐としていた。先が見通せず、勉強に集中できる雰囲気ではなかったように思う。禁衛隊のバッジは今も持っているが、詳しいことはあまり覚えていない。良い思い出ではなかったからだろう。周りの友人に、学徒出陣した者はいなかった。

終戦後、末川博新学長の就任宣言を、広小路の校庭で聞いている。だが、授業が再開してしばらくしてからも学内の重苦しい雰囲気は続き、昭和22年3月、将来への不安を抱えたまま卒業を迎えた。

聞き手:仲治實(校友会設立100周年記念事業特別委員会副委員長)
    ※眞下保太郎さんは、仲副委員長の義父
取材:2017年12月22日

解説

眞下さんが入学した1944年4月は、専門学部を改組し、専門学校として認可された時期でした。この専門学校には、法経学科・文学科・工学科・理学科の4学科が置かれました。4つの学科のうち、2部(夜間)を有していたのは法経学科、文学科、そして理学科(数学科・物理科・化学科)でした。ちなみに理学科が立命館大学専門学部に設置されたのは1942年4月。設置当初は立命館日満高等工科学校を前身とする工学科と同じく、衣笠を拠点としていました。一方、文社系の拠点であった広小路では、大部分の学生が学徒出陣や勤労動員のため学業を中断しており、構内はがらんとした状態に。そこで、過密状態であった衣笠から広小路へと、理学科が移転しています。戦争が終わり、広小路に活気が戻り始めると、たちまち手狭になり、理学科は再び衣笠へと移り、1949年には新制大学の理工学部として認可されます。眞下さんが在籍したのは、ちょうど理学科の学び舎が広小路にあった時期と重なります。

戦時中から終戦直後という混乱の最中で送った3年間の学生生活。学園にとっても、創立者・中川小十郎を亡くし、戦後の立命館を率いた末川博名誉総長を迎える、まさに激動の時代でした。終戦という社会の大きな節目と、学園リーダーの変遷という立命館にとっての大きな節目を経験した眞下さんの記憶は、戦争に翻弄された理学科の歴史を知る上でも、貴重な証言となっています。

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