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”君なら相当なとこまでやれる”

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山本 二郎さん
1959年卒/院理工学部
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2018.8.20
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”君なら相当なとこまでやれる”

鳥取大学を退官して18年になります、私が大学4年のとき、就職の失敗と母のすすめもあって大学院を目指しました。専門科目には多少自信がありましたので、苦手だった英語を3ヶ月あまり勉強いたしました。少しはカがついたことと思います。試験終了後、門脇博明教授から「山本君、英語が非常によくできた。何か同じものをみたのかね」とたずねられました。 出題と同じ本を目にする確率はオールモストゼロであります。「いいえ」とお答えいたしました。大学院入試の前、 周辺の人に「私は入試に1位でパスしてみせる、1位になれば奨学資金がいただける」と約束いたしました。奨学資金を得た私は、母からの送金を少し減らしました。大学院を終えたあと、京都大学原子核工学科より助手の公募がありました。門脇教授の推薦を受けて京大に採用されました。京大での原子力は難解であり雑用が多かったので苦しい毎日でした。京大で7年間を過ごしたあと、郷里の鳥取大学に工学部が設置されました。工業化学科もできたので、私は京大から鳥大へ移ることになりました。 学生時代に学んだ有機化学にようやく戻ることができたのです。当時の工学部は世帯が小さかったので、教官と事務官は笑顔で仲良く接することができました。13のリクレ ーシヨンの班がつくられて、私は茶華斑と野球ソフトボール斑の班長に任ぜられました。大学院学生時代に町で学んだ茶道がいくらか役にたったようでした。週に1回の稽古を行い、数回の京都と金沢へ1回の研修旅行を実施いたしました。全国で万を超える教授のなかで、客人に抹茶を供した教授は私だけだったと思います。研究室対抗で、のベ参加人数110名の中から、私は首位打者と強肩王に選ばれたことがあります。私が在職中に、工学博士を取得いたしました。私が大学院に在学中、「山本君、君ならば相当なとこまでやれる」と門脇教授から激励されました。このとき私に、小さな希望が芽生えました。工学部で実験をすすめ、結果をまとめ学会に投稿する時間は、私にとって貴重なひとときでした。 立命館大学で取得した工学博士を含め、4つの学位(工学2、理学1、農学1)が授与されています。 苦しくって懐かしい学位の取得でした。
私が退官すると同時に2つのリクレーションの班は消滅いたしました。62歳のとき鳥城クラブに入団し、年輪ピックに3回出場いたしました。 77歳になるとの私の黄金の手首は二塁へ放物線を描き、 セカンド累上でランナーを刺せなくなりました。 この時、私の黄金の手首は鉛に変わったのだなと思いました。

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