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新制大学発足の頃

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辻村 寛さん
1953年卒/理工学部電気工学科
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2017.7.7
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新制大学発足の頃

 手荒く消しゴムを使うと破れそうになるザラ半紙にガリ版刷りされた入学試験問題と取り組んだのは1948年2月の中旬だった。京都独特の底冷えと雪花が舞っていた日、私は衣笠校舎で入試をうけた。御所の近くの家の一室を借りて、自炊による学生生活が始まった。戦後3年目とはいえ、まだまだ復興にはほど遠く、食糧難の時代で鉄道は闇米を運ぶ乗客であふれていた。米の配給も途切れがちで、代用食で空腹をみたすのに汲々としていた。家からは月額2,000円の仕送りを受けていたが、映画館以外は娯楽施設もほとんどなく、お金の使い途は闇市以外にはなかった。夏休みに帰省している間に、米の代わりに配給されていたのが鍋一杯の砂糖であったのには驚いた。街の飲食店が米飯を提供するようになったのは翌年からであったと思う。
 専門学校の初年度納付金は、入学金1,000円、授業料3,600円(年額)、謝恩基金500円の合計5,100円であった。しかし、当時のインフレはすさまじく、10月から授業料が、文系は6,000円、理工系が7,200円に値上げされ、月割り計算で差額分を納付しなければならなかった。翌年に新制大学が発足するが、入学金3,000円、授業料9,500円、謝恩基金400円であった。授業料は毎年のように値上げされ、私が4回生になった年は入学時の納付金は総額22,900円となっていた。ちなみに1953年に大学助手として採用された私の初任給は6,000円であり,2年後に教室助手として採用された前田稔夫氏の初任給は10,500円であったそうで、当時のインフレの凄まじさがよくわかる。
 立命館大学理工学部が認可された入学定員は、各学科1部70名(化学科のみ105名)、2部50名であったが、開校年度に定員を確保することは困難であった。それは、旧制中学を卒業後に進学を志望した者は、その年に旧制高等学校、専門学校へ進む途を選んでいたからである。私のように、専門学校の1年を終えて新制大学へ転入した者は極めて少なかった。理工学部1部へ入学した学生は各学科50名前後であったので、1・2回生の時は専門科目以外は各学科混合のクラス編成であった。
 建物施設に関しては専門学校の学生と順次入れ代わるので、当面は教室を遣り繰りして支障はなかったが、新制大学では、一般教養科目36単位の履修が義務づけられ、かつ授業時間の3倍の自習を建てまえとしたので、文部省の認可条件として図書館の整備が必要とされていた。このため、衣笠キャンパスでは戦後最初の建築として、鉄筋3階建ての図書館・大教室が1954年に建てられ、その名称を3号館とした。1号館は戦前に建てられた木造2階建ての講義室であり、その一隅に事務室があった。理工学部事務室・会議室を含む2号館は、3号館の西側にあった大きな池を埋め立てて1956年に建設されている。
 新制大学発足時の電気工学科の専任教員は、戦前の専門学校時代からおられた山本茂先生、平野克巳先生、三亀幸雄先生、戦後2年目に本野亨工学科科長の後任として京都帝国大学から招聴された羽村二喜男先生、元・旅順工大教授の上林一雄先生、新進気鋭の小堀冨久先生が名を連ねておられた。

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