友人・恩師・クラブ・キャンパスライフ…
校友だから共感できる!
そんな学生時代の思い出をのぞいてみよう。
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そんな学生時代の思い出をのぞいてみよう。
人生最悪の日からの復活
立命館大学に入学して射撃部に入部したのは昭和43年、1970年の大阪万博の2年前のことだった。私はエアライフル伏射競技の京都府予選で勝ち進み、京都代表となった。初心者から始めて4カ月、自分も射撃部先輩も驚いた。その年8月31日は福井国体のユニフォーム合わせの日。申込み用紙を記入していると隣に座った同志社大学先輩のYさんが私の用紙を見て「吉田は18歳か。エア伏射は成年競技なので18歳は出場できないよ」と言った。京都府予選はやり直しになり、私はその年は国体に出場できなかった。意気揚々と出かけたのにがっくりして下宿に帰ったその夜、大家から「吉田、下宿を替わってくれないか」と言われた。2つの最悪な出来事が同時に起きた人生最悪の日だった。しかし、その後、捨てる神あれば拾う神ありを実感する出来事があった。福井国体出場はできなかったが、国体監督である同志社射撃部監督の星名教授が「俺が君を福井に連れて行く」と言ってくれ、星名教授執筆のライフル射撃競技の教本を販売する係を仰せつかった。京都ユニフォームは前年の教授のものを借りた。他県の選手たちがよく購入してくれた。当時は射撃経験者が書いた教本は日本にはなく、星名教授のエストニア型伏射の解説書はすばらしく、同志社・立命の八瀬射撃場出身選手が強豪だったこともありよく売れた。また、福井国体では故郷の建部岩手県監督に会い、「京都の代表選考会で優勝したが、年齢が足りなくて出場できなかった」と伝えた。岩手県の監督は「再来年に岩手国体がある。京都からではなく岩手から出場してほしい」と言われた。その後、2回生~4回生まで毎年国体に出場し、岩手国体では10位と入賞を逃したが、その前後の国体では3回入賞している。下宿のことも大きな展開があった。元の下宿はうどん屋さんで、お店でビールの一つも飲んでくれる社会人下宿人を望んでいたのだ。やむなく、広小路校舎の学生課に相談して下宿を探した。新しい下宿は下鴨宮崎町にあり、八瀬射撃場で練習が終わると叡電で出町柳駅に着き、広小路の学生食堂で夕食をした後は、葵橋を渡れば下宿はすぐだった。時間も短縮され交通費も減った。下宿を移ってよかった。
移った下宿の娘さんの描かれた水彩画が現在、私の手元に残っている。作者名は「吉田ありさ」と書かれてあり、著名な挿絵画家で、つゆ知らず麻雀を教えたりして交流した。下宿を退去するときに、「女学生の友」「美しい十代」といった雑誌の掲載小説の挿絵を描いておられる方と初めて伺い、この絵を直接いただいた。その後も年賀状だけではあるが交流は続いた。惜しいことに60代で亡くなった。この挿絵を見ていると、人生最悪の日かと思ったあの日から、様々な方々とのつながりやご縁をいただいたこと、その後の下宿での日々、淡い青春時代の思いがよみがえる。まさに人生最悪の日からの復活である。岩手に戻り、射撃選手としても復活している。