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宝ものの時代(あるアパートにて)

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東 昌三さん
1974年卒/産業社会学部
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2017.9.28
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宝ものの時代(あるアパートにて)

 京都駅でチッキの荷を受け取り、新生活の場所に向かったのは50年近くも前のこと。そこは、電停「高木町」から北へほんの数分のところにあった。2階建て木造アパートで、○○学生寮という表札が掛けてあった。ペンキの剥げた粗末なつくりの玄関の扉は大きく開けられ、防犯意識のかけらも感じられなかった。中に入ると薄暗い長い板張りの廊下が東西に伸びていて、廊下を挟んで部屋が左右にあり、左が南向き6畳、右が北向き4畳半で、2階を合わせて20数部屋あったと思う。当時の相場かどうかは判らないが部屋代は1畳当り千円(因みに大学生協のカレーは60円)だった。これは退去まで変わらなかった。雇われの管理人さんがいて、1階の4畳半の部屋に案内された。歩くと少し畳が沈んだ。窓にその振動が伝わって、薄いガラスが微かに震えて鳴った。鍵を掛けても隙間ができた。何より驚いたのは汲み取り式の共同トイレだった。その汚さに慣れるまで以後何日もかかった。慣れた後もあまり行きたくはなかった。そのせいで便秘にも悩まされる羽目になった。ただ、決してきれいなアパートではなかったが、結構人気があって空室になることはなかった。自分は伝手をたどって入ったのだが、新入生の入居者は一人だけだった。
 こうして大学生活は始まった。住人は他校の学生も幾人かはいたが圧倒的に多かったのは立命大生で、そのため程なくしてほとんどの人と懇意になって、部屋にも出入りするようになった。様子が分ると、羨ましかったのが6畳南向きに住まう上級生達の部屋だった。広く、明るく、暖かかった。窓の外には広い庭が広がっていた。反して自分の部屋の外にはカイヅカイブキの垣根が迫り、日当たりが悪く暗かった。冬はとてもじゃないが寒かった。願いが叶ったのは1年後である。
 下宿生活は本当に楽しかった。宝ものの時代だったと言ってもいい。ひとつ部屋に集まって、たびたび飲んだし、文学論議あり、雑談に興じたりした。徹夜でマージャンもした。また、家賃の交渉などしたこともある。ほとんどの学生が食費に事欠く貧乏で、毎日きゅうきゅうとしていたが気にしないし、明るかった。誰かに仕送りが届いたり、奨学金が入ると、その日は数人連れ立って飲みに行った。そして翌日から食費を削った。今も思い出すだに哀れで楽しい想い出だ。特に貴重な出会いもあった。2年先輩のTHさんだ。洞察力、胆力、説得力など皆が一目置く存在で、当時から気が合い、薫陶を受けた。氏とは関東と九州に離れた現在も生涯の友として家族ぐるみの付き合いがあり、年1回未だに先方のおごりで酒を酌み交わしている。こうして当時を思い出しながら書いていると、懐かしい顔が次々に浮かんでくる。あの頃一緒に過ごした皆は変わりなく息災だろうか、当時を振り返ることがあるのだろうか。
 これは、三島由紀夫事件や産社学部が広小路から衣笠へ移る頃の話である。

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