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市電で下駄履き通学

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野村 歳夫さん
1970年卒/法学部
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2017.10.16
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市電で下駄履き通学

カランコロンと徒歩で自宅から、最寄の市電停留所まで、定期ではなく現金で毎日通学。塩小路―府立病院前を最盛期の市電河原町線で、、、

京都市立伏見工業高校の工業デザイン科の第一期卒業生。京都新聞の活字組部に就職も決定していたが、小学校中退の大正生まれの父が、「歳夫、頼むさかい大学を受けてみてくれ。立命やったら、月謝もやすいし。どや、やって見るか。」と珍しく懇願。電気アイロンの卒業制作(レイアウト・レンダリング・設計・油粘土で造形・石膏で試作・着色)の最中で、受験対策も0.受かる訳ないやん、と心の中では、、、すると、近所の立ッチャン卒のお兄さんが、「とっちゃん、昼間はきついけど、頑張ったら二部やったら、なんとかなる。大化の改新と明治維新をしっかりやっといたら、試験も大丈夫。」(???)

末川 博総長のご方針で、門戸解放&日本全国の若者に大学進学の機会を、貫かれていた時代でもあった。月謝も当時、私立では最低額クラスだったかと。 文系で採用人数が多かった法学部に挑戦。多分、最下位の成績だったと思うが、無事、合格。昼間は空いていたので、昔から憧れていた拳闘部に入部。広小路学舎上がるのジムに、朝10時頃開始の練習に合わせて、市電通学で。クラブ仲間は、鳥取県下の万屋(田舎の百貨店?)が実家のG君。寮生活の文学部哲学科。兵庫産で、市内下宿通学のH先輩。彼はよく「田舎の仕送りが遅れてて、この一週間、醤油メシや。野村。」とこぼしてはった。神戸から通学のI主将は、巨漢で笑顔が優しいミドル級選手。彼とフェザー級の僕だけ隣人の同志社大ボクシング部の先輩に、対等で試合に臨んでいたのも懐かしい。和歌山の大先輩で空手有段者の道場での合宿も、また鼻血ブーの思い出(笑)。

バイトは遊びを覚えるとの警戒心から、父から禁止されていた(1-2回生)ので、練習の無い日の午前中は、三条柳馬場の京都YMCA英語会話学院通い(月水金)。日本語の全くできない、1970年代のUSAヒッピーや英国から来た日本漢字研究中の紳士、知的でファッショナブルなアフリカン系の熟女、ハワイ生まれで色白な黒髪の日系美人などなど、多士済々なインテリ揃いの英会語学校だった。ボクシングと英会話が僕の青春、母校での講義は無欠席に近い皆勤だったが、熱心な聴講生ではなかったかも。

夜間の講義を終えると8時前後、昼の練習と長い講義で疲れてはいても、昼間の勤務を終え、眠い眼を押しての授業参加の皆さんを横にしていたので、神妙ではあった。年齢層も3-4割りは、年上の勤労者の皆様の印象でした。尼崎の職場からJRや市電を乗り継いでの通学だったS君。自宅から気楽に下駄履き市電していた僕は、今(来年古希)思うと、苦学なんかではなかった、お陰さまで恵まれた通学でした。小学校中退の両親に感謝の念強く、故人となった彼らへの報恩は、遅かりし由良の介なりしか、、、

 

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