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ここは、西京極学生ハイツ

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小林 昌人さん
1979年卒/経済学部
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2017.11.9
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ここは、西京極学生ハイツ

 昭和49年、当時としてはしゃれた名前の下宿先、鉄筋4階建て80人の学生が集う。
 駅から歩いて10分程度とはいえ周りにはまだ畑が点在するのどかな風景。ここからいくつもの出会いと出来事とが始まる。
 18歳の独り立ち、6畳程度の部屋には机と布団のみ、閑散とした部屋、テレビもなく唯一相手はラジオ、孤独の中で4年間の大学生活がスタートした。
 衣笠学舎までは自転車で1時間弱、朝早く学校へ行き朝食を食べ授業、昼食を取り授業、夕食を学食で食べて帰るいわゆる真面目な学生生活がしばらく続いた。
 下宿先は立命館・同志社など様々な大学の学生が烏合の衆、テレビのない私にとってロビーにある共同のテレビは少しずつ出会いの輪を広げていく。最初の出会いは鳥取県出身の立命館学生と山形の同志社学生、そして北海道・熊本の同志社先輩、愛知・佐賀の立命館先輩と出会いは広がっていった。2回生へと進むにつれて、山口・鹿児島・福井・三重からの同級生と出会い、そして今でも親交が続く友人となっていく。
 炊事場とトイレは共同、当然風呂はなく銭湯通い。電話も共同電話1台で、受電があると管理人のおばさんがブザーで呼び出してくれた。炊事場での自炊はガスのコインを買って節約しながら食事を作る。
 食事の思い出は多い、貧しいなかで常に飢えを感じていた。学食から自炊そして外食へと友人が増えるにつれ幅が広がる。下宿の近くの大衆食堂・駅のそば屋・深夜のラーメン屋台など想い出の場所が浮かんでくる。
 ある日、先輩が肉をご馳走してくれるという、肉はなんとホルモンのみ。初めて食べるホルモン、食べ切る硬さに驚きながらも空腹は十分に満たされた。鹿児島の下宿生と飲んだ初めての芋焼酎、すごく臭みが強く焼酎で飲める代物ではなかった。
 下宿先の近くでのアルバイト、夏の1ヶ月間京都西陣織の染付反物巻き、女子大でのパン販売、幼稚園児の家庭教師はお金を稼ぐとともに食事にありつけることが嬉しかった。
 様々な下宿生とお互いの部屋を行き来し、酒を酌み交わし郷土・勉強・バイト・将来の話などを語らい親交を深めていった。食事を分ち合い、悩みを相談し合い、共に歌い、流れていく時を楽しみ、時を築いていった。
 年次が進みにつれ、卒業して去る先輩を送り、新しく入る同窓・後輩を迎える。下宿にはコインで入れるシャワー室が設置され、銭湯代を節約できた。部屋には卒業する先輩が残していってくれたベニア板のベッド・冷蔵庫・ギター・レコードプレーヤーなどが増えていった。暑い夏を扇風機もなくうちわで過ごした。実家からの扇風機代が飲み代に消えたのが理由であるが。
 4年間の下宿生活は、人と人との交わり、生活していく強さやコツ、喜びや悲しみを十二分に教えてくれた。まさに青春そのものの下宿生活。今でもハイツの仲間は気心の知れた友である。
 ハイツは開発で取り壊され道路になっており当時を偲ぶ姿はないが、今でも心の中に鮮やかに残されている。

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